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調教師藤沢和雄、タイキシャトルで描いた世界の夢


先月、日本競馬を代表する名調教師・藤沢和雄が引退することになった。そんな藤沢和雄を代表する名馬はたくさんいるが、特に印象的なのは世界を制した名マイラー・タイキシャトルであろう。タイキシャトルは最強マイラーとして知られ日本競馬界に残る名馬として顕彰馬として選出されている。
今回はそんなタイキシャトルについて解説していきたいと思う。あまり知られていない海外遠征にまつわるエピソードと日本競馬が世界へと夢を繋いだ瞬間を語っていこう。

タイキシャトル


まずは藤沢和雄の生い立ちから説明していく。藤沢はイギリスのニューマーケットで競馬を学び、現地のホースマンの馬に対する接し方、態度などを学んだ。そして偶然にもフランス滞在時に、野平祐二と出会い、調教師として開業した野平の厩舎スタッフとして藤沢はスカウトされた。そして野平厩舎で働く藤沢は、野平厩舎の代表馬である三冠馬シンボリルドルフと出会い岡部との仲も深めた。シンボリルドルフは日本では紛れもなく最強であったが、アメリカ遠征では、レース中に故障を発生して惨敗に終わるとアメリカのファンから罵声を浴びせられることとなった。その時の鞍上岡部と藤沢は「いつかこの借りを返す」と心に誓い、海外遠征への思いを深めていった。
藤沢は調教でもイギリスで学んだ調教を導入し、多くの勝ち星を挙げることになった。そんな中でも馬主大樹レーシングの所有馬で海外遠征に行き、クロフネミステリーで3着の成績を収めると、続くタイキブリザードではBCクラシックに連続出走と海外挑戦へ積極的にチャレンジしていく。そして藤沢和雄厩舎を代表する名馬タイキシャトルは、今で言う3歳時にスプリンターズステークスとマイルチャンピオンシップを制し、国内短距離路線の頂点に立つと、世界挑戦を期待する声が周囲から高まっていった。
タイキシャトルは蹄の弱い馬で、蹄に亀裂が入るなどのアクシデントもあったが、装蹄師の志賀勝雄は、通常6本打つべき釘を4本しか打たないフォーポイントと呼ばれる技法でタイキシャトルの蹄を伸ばすことに成功し、叩きの京王杯スプリングカップを圧勝すると、「雨の中の無敵」と後のCMで称される圧倒的な走りを見せた安田記念も貫禄の勝利。堂々と海外競馬への挑戦権を得た。「これで言い訳はできなくなった。」藤沢和雄は苦笑いしながらこう言いつつ、跳ね返され続けた海外遠征に挑むこととなる。
タイキシャトルはイギリスかフランスのどちらを選ぶかで迷ったが、藤沢和雄の恩師であるトニーという知人の助けがあったことと、軽い調教でも仕上げられるタイキシャトルの良さもあって、フランスに滞在することを決めた。そして1週間早く海外G1を制すことになる森厩舎のシーキングザパールとともに検疫厩舎にはいり、タイキシャトルは海外へと飛び立った。ちなみにシーキングザパールがタイキシャトルよりも1週間早く勝ったのには理由があり、シーキングザパールはせっかくフランスまで行ってタイキシャトルと一緒に走るのは避けたいとの話が森厩舎からあったため、シーキングザパールはモーリスドギース賞、タイキシャトルは1週間後のジャックルマロワ賞に登録することになったという。

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そんなタイキシャトルであるが、欧州の調教でも藤沢和雄の名エピソードがある。調教助手が馬なり調教に不安を抱き、藤沢の指示を仰いだことがある。それに対し藤沢はこう答えた。「ゴロンとした体型の馬だし、うちの厩舎の馬なり中心で仕上げていく方法を見たらトニーがそう思うのは仕方ない。でもシャトルのことは君がよく知っているだろう?」といつも通りの調教を指示した。・・・藤沢がこう答えたのには理由がある。
タイキブリザードでBCクラシックに挑戦した際、調教で現地のスタッフが張り切って仕上げすぎてしまった苦い経験があったのだ。だからこそ初志貫徹で今までやってきた通りの調教を積ませるように依頼したのである。
そして森厩舎のシーキングザパールが先にG1を勝つと森から藤沢に「大丈夫、シャトルなら楽勝ですよ」と言われるが、藤沢にはこの言葉がプレッシャーだったらしい。
しかし不安というものは襲い来るもので、レースを直前に控えたタイキシャトルは興奮気味になり、蹄鉄がズレていたとして打ち直すことになる。その時装蹄師はタイキシャトルに蹴られて肋骨を折るハメになってしまった。そんなアクシデントもあったが、蹄鉄を打ち替えることに成功し、タイキシャトルを無事にパドックへ送り届けることが出来た。
ジャックルマロワ賞は、豪華なメンツであった。今も種牡馬としてその血をシーザスターズなどに残しているケープクロスだけでなくアマングメンなどたくさんの強敵がいた。だがその強敵たちにもタイキシャトルは直線で見事に競り勝ち、藤沢厩舎にとってもタイキブリザード、クロフネミステリーの無念を晴らした。そして岡部にとってはシンボリルドルフで涙をのんだ雪辱を果たすこととなった。
タイキシャトルが描いた世界の夢。そして藤沢和雄調教師がつかみ取った世界の夢は今なお日本競馬界にとって道標となっている。


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