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エフ氏の情景

中古戸建の購入を考えており、知り合いの工務店を頼って不動産屋に良い物件を紹介してもらった。そこは庭で前家主が倒れてそのまま亡くなったらしく、心理的瑕疵扱いで立地の割にかなり安い。

工務店と不動産屋とで内見に行くと、荒れ放題の家屋に前家主が垣間見えた。

その家に住んでいたのは息子と母親で、母親が亡くなってからは独居のまま人生を閉じたのだった。息子をエフ氏とするが、エフ氏は元々精神薄弱気味だったのか、まだ片付けられていない古い家電やサッシにマジックで文字が書き散らされてある。

「ドアを締めたらロック」
「ドロボウ オコトワリ」

こんな感じで家屋のあちこちに顔も知らぬエフ氏の影が見える。リビングに放置されてある白いヒーターには、気に入ったであろう女性俳優やタレントの名前が赤いマジックで何度も書いてあった。

「江角まきこ」
「オヤンフィフィ」
「万田久子」
「寺島しのぶ」

テレビを見ながら書き連ねていたんだろうか。行き場のない性欲がそこに置かれてあるようでなんとも言えない気持ちになる。

工務店が部屋の隅にある物置の扉を開くと、彼が「あっ」と小さな声をあげた。何かあったのかと見に行くと、煤けたドアの裏側にアダルトビデオのチラシが何枚も丁寧に貼り付けてあったのだった。古い家の全てが色褪せているにも関わらず、日の当たらない場所に貼られていたビビッドなチラシは妙に真新しく見えて、鮮明に存在感を示していた。

男の一人暮らしに遠慮など何もないのに、それはエフ氏にとって隠されるべきものであり、秘密にすべきものであったのだろう。だからそれらを物置の扉の裏側に大事に仕舞っておいたのだ。亡き母親にも、誰にも見つからないように。

不動産屋に少し話を聞くと、エフ氏は母親が亡くなってからはほぼ天涯孤独で、今の家主は縁遠い親戚なんだそうだ。一度会ったか会わないかぐらいの親戚に相続され、今は荒れるに任せて彼の住処は売りに出されている。そこも含めてエフ氏の人生を見ているようで、錆びた釘で心を軽く撫でられているような気持ちになった。

ここが買われてしまえばエフ氏の情景は上塗りされ、だんだん消えていく。そして下地が見えないほどに新しい情景に上塗りされた時、エフ氏の人生は成るのだろうな、と思った。

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