のぼっていく・・・。

彼は山登りが趣味というわけではなかった。
それどころか山に登った事など殆ど無く幼い頃に両親に連れられて観光地化
している低い山に登った程度だという。
それなのに、彼はなぜ急に山に登りたくなってしまったのか?
ちょうどその頃は決算月という事で仕事がかなり立て込んでおり、彼も他の同僚と
同じように徹夜で仕事を何とかこなしている感じだった。
ただ、彼の場合、他の人よりも担当する仕事が多かったのかもしれない。
彼は3日前からほんの少しだけの仮眠をとりつつ3日連続の徹夜をこなしていた。
翌日が日曜日だという事もあったのかもしれない。
だから、彼は自分の中の限界点を越えて仕事に集中してしまったのだろう。
3日間の徹夜の末に何とか仕事をこなした彼は疲れているが頭はとても冴えていたという。
そして、その時、頭の中に突然
山に登りたい・・・。
という強い衝動が駆け巡った。
だから彼は会社を出るとそのまま家には帰らず、朝まだ暗いうちに近場にある
山へと向かった。
山ならば何処の山でも良かった。
どんなに低くても、どんなに登りづらくても・・・。
とにかく山に登って山頂の景色を眺めながらすがすがしい空気を思いっきり
吸い込みたかった。
そうしなければ自分はすぐに気が狂ってしまう・・。
そんな気がして仕方なかった。
だから彼は近場にある山を思いだした。
特に山登りの準備をしなくても普段着で普通に登れる山。
のぼる山が決まると彼はすぐに車に乗り込み目的の山へと向かった。
車で30分ほど走ると目的の山に到着した。
山の登り口には大きな駐車場があった。
少し時間帯も早かったから彼はそのまま車の中でシートを倒して横になった。
しかし、かなり疲れが溜まっていたのだろう。
彼はそのまま気付かないうちにウトウトしてしまいすぐに熟睡してしまう。
ハッとして目が覚めた。
時計を見ると既に午前7時近くになっていた。
彼は慌てて車を降りるとペットボトルのお茶だけを持って登山口から遊歩道へと
進んでいった。
靴は仕事用の革靴だったが、疲れたり足が痛くなった時点で引き返せばいい、と
軽く考えていたそうだ。
しかし、日曜日の午前7時になろうとしているのに駐車場にはあいかわらず
彼の車しか停まってはいなかった。
こんなもんなのか?
それとも、まだ時間帯が早すぎるのかな?
そんな事を考えながら彼はゆっくり山道を登っていった。
20分ほど歩いたが特に喉も乾かないし足が痛くなることもなかった。
彼はよくニュースで、小学生はおろか幼稚園児たちがこの山に登りに来ていたのを
何度も目にしていた。
だから、彼も小一時間も歩けばすぐに山頂に到着してしまうのだろうと
思っていた。
しかし、それから彼は1時間以上山道を登り続けていた。
足は痛くなってはいなかったから、別に何か困る事があったわけではない。
ただ、彼は、山というのは実際に自分での掘ってみると案外山頂まで遠く
感じるモノなんだな、と感じていたそうだ。
とにかく山頂に辿り着けるどころか、まだまだ先が長いのだと感じていた。
そして、もう一つ驚いたことがあった。
彼が山道を登り始めてから30分くらいしたころから急に登山者が増えた。
そして、誰もが彼と同じような普段着を着ていた。
低い山なのだから別にこんなものなのかな・・・。
とも思ったが、それにしても山道には山頂を目指す人たちで溢れかえっていた。
そして、何故か彼らは全員が単独で山登りに来ているようで誰も皆、
俯いたまま一言も喋らず黙々と歩を進めていた。
しかも、全員手ぶらで山道を登っている。
喉が渇いたらどうするんだろうか?
もしかしたら山道の途中とか山頂にはコンビニ的な店でもあるのかもしれないな。
そんなくだらない事を考えながら彼は自分のペースで歩を進めていた。
しかし、自分のペースで歩いていると、これほど沢山の人に追い越されてしまう
ものなのか?
とにかく彼は後ろから来た人たちにどんどん追い越されていった。
しかし、それでも後ろを振り返るとまだまだ沢山の人達が黙々と山を登って来ていた。
彼はその人たちにまで追い越されない様に少しペースを上げた。
しかし、それでもどんどんと彼を追い抜いていく。
そうしているうちに、いよいよ彼の後ろを歩いてくるものは誰もいなくなった。
そして、その時、彼はある事に気付いたという。
それは彼の視界の前方に広がった登山道が明らかに真っ直ぐな山道になっており、
その山道の先には濃い霧が立ち込めており吸い込まれるようにして登山者たちが
その霧の中へ消えていく・・・。
そんな光景だった。
登山道が曲がる事も無くこれほど真っ直ぐに続いている事は常識では
考えられない事だった。
そして、どうやらその道はまるで空まで続いているかのように真っ直ぐに
延々と続いていた。
彼はその霧が何故か懐かしくも感じたし癒されるような感覚も感じていた。
しかし、同時に彼はその霧には近づいてはいけないような気がして仕方なかった。
何かあの霧の中に入ったらもう戻っては来られない様な気がしたのだという。
その時初めて彼は思った。
自分にはまだやり残した事がある・・・。
やりたい事も沢山あるし何より自分には護らなければいけない人がいる・・・と。
だから彼はそのまま方向転換すると急いで山を下りだした。
逃げる様に・・・。
そもそも全てがおかしかった。
どれだけ歩いても喉は乾かないし革靴を履いた足すら全く痛くなどなっていない。
掛けは時折転びながら必死に山を下り続けた。
何故かそれから20分程度で山を下り駐車場に戻って来る事が出来た事に彼は驚いた。
そして、また彼を驚かせたのは、駐車場には相変わらず彼の車1台しか
停まっていなかった。
それを見た瞬間、彼は酷い睡魔に襲われてそのまま車の中に倒れこむようにして
意識を失った。
気が付いた時には病院のベッドの上だった。
山の駐車場でドアを開けたまま倒れている彼を見つけた登山者が救急車を
呼んでくれたそうだ。
結局、彼はそのまま過労と不整脈で1か月ほどの入院になった。
医師からは見つかった時には危険な状態だったと聞かされて彼は思わずゾッとしたそうだ。
彼がのぼったその山は本当に現世の山なのだろうか?
俺にはそう思えて仕方がないのだ・・・。

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