見出し画像

第七章 残された光、北条泰時は内政のプロフェッショナル!

・謙虚な好青年は思慮深き統治者へ

鎌倉殿の13人の中では、思いやりのある実直な好青年として描かれている北条泰時。
実際、父親である義時に輪を掛けて腰の低い人物だったようだ。
それでも、戦での実績も着実に重ね、39歳の時に起こった承久の乱では見事に総大将を勤め上げ、幕府方を大勝利に導くという華やかな軍功を打ち立てることとなる。

偉大なる父を失った後も、負けず劣らず偉大であった尼将軍政子とスーパー文官大江広元のサポートによって、執権として采配を振るうことができていた。
しかし、1225年に二人が亡くなってしまうと、重鎮たちのカリスマで不満を抑え込むやり方は通用しないだろうと、再び合議制に戻すことにする。


・俺、独裁者じゃないから安心してね!

執権も二人置いて、ツートップにする。
だが、流石に権力を同等にしてしまうと上手く行かなかったので、補佐役は連署という役職として据えることにした。
公式の文書は、二人が連ねて署名することで効力を発揮するようにしたので、連署。これで、少なくとも独裁は行えない。
初代連署は、童顔な瀬戸康史が演じてるせいで、どうしても末っ子にしか見えない時房叔父さん。実際、きちんと己の分をわきまえた人だったようだ。

泰時も、叔父の時房を立てたり、遺産相続でも自分の取り分を少なくしたり、冷静に自分の立ち位置を把握して、反感を買わないように振る舞っている。

みんなでの話し合いを大事にする評定衆は、11人で、執権と連署を加えると、13人。
鎌倉殿の13人体制を踏襲しているんだが、かつて発足当時から足の引っ張り合いで瓦解を始めた義時らの合議制を真似ても意味がねえなってことになる。
さらに、承久の乱での勝利によって西国まで支配できちまったから、訴訟や各種トラブルの相談も倍増。

それらをきちんと円滑に裁く為に、武士でも分かる理屈や言葉で法律を定めようってことにする。
それが、評定衆が始まって7年後に発表された御成敗式目。
泰時自身、京から法律の専門家を呼んでかなり勉強したらしい。

カリスマある独裁者がいなくても、みんなが納得できる政治や法律運営ができるルール。それが御成敗式目。


・御成敗式目に懸ける、泰時の熱い想い

当時、六波羅探題(京都で朝廷を監視する為に置かれた役所)にいた弟の北条重時に、熱い想いを書き綴っている。

・御成敗式目は、人の心を正直に尊び、曲がった道理を捨てた、平凡な道理   に基づいて作るんだ!

・身分の差によって判決内容が変わるとかも、絶対許さん!

・公家の法律は、武家には難しくて理解できない。あの頼朝様ですら、公家法は用いなかった。だから俺は、武家の、武家による武家の為の法典を作る!

・きっと朝廷は、「東国の人間風情が何を愚かなことをしているのか」「法典なら既に公家法があるじゃないか」とか、いろいろ言うだろう。そのときは、上記の理由で説明して欲しい。

実際、当時の公家法は、古代に定められた律令制が上手く機能しなくなったところに、後付けで膨大な訂正や改変を付け足ししていったものとなってるから、余程の専門家でなければ使いこなせなかった。
それに加えて、幕府支配になってから、各地にはそれまでの支配者である受領の他に、御家人が務める地頭が徴税者として派遣されることになるから、それはもうややこしいことになったかと…。


・武士を野蛮人から心ある人へと導く…!

真っ先に描かれているのは、神社仏閣を大事にしようということ。
貴族たちほどではないにせよ、やはり武家にとっても、神罰や祟りといったものはそれなりに信じられていただろうから、これは国防の概念でもある。
現代に置き換えると、病院や公園などを大事にする感覚に近いだろうか。

その後は、土地や税金や相続に関することがきちんと書かれていて、それだけ、それらがトラブルの原因だったことを窺わせている。

そして、大事なのが、罪を犯した場合の対処法に関する明記!

・相手の命を奪ったら、死罪か流罪だよ。
・仇討ちで人を殺したら、一族ごと同罪にするよ。
・争いの元である悪口は駄目だよ、特に裁判で相手の悪口を言ったら、敗訴決定だよ。
・人に暴力を振るったら、重い処分を下すよ。特に御家人がやらかしたら、所領を没収するからね。
・文書を偽造したら所領を没収するよ
・歩いている女性をさらった場合、御家人は100日間の停職にするよ。

現代人からすると、人を殺すと罪になるのは当り前のことなんだが、『門前に生首絶やすな』が格好良いとされる時代、争いのない時代を築いていく為には、きっちり線引きしておかなければならないルールだったんだ。
…女性さらっても100日間の停職で済むというのは、ちょっと納得いかないが、まあそこはそれ…。男女平等? 何それ美味しいの?って時代だからな…。


・鎌倉幕府の黄金期を迎える…!

権力を分散し、御家人たちには物腰柔らかな姿勢で臨み、トラブルは御成敗式目というマニュアルに則って解決する。
この方針は成功し、内ゲバが絶えなかった鎌倉幕府に、ついに安定をもたらし、黄金期を迎えることになる。

更に、この御成敗式目は、室町時代にも用いられ、戦国時代には少し追加の法律を加えた分国法となり、江戸時代に至っても、法令としての権威を持ち続けることとなる。寺子屋の教科書にもなったという。

陰謀と血に塗れた父親の背中を見て育った泰時が、熱い想いで作り上げた法典は、人を導く光となった!


長文、お付き合い頂きありがとう!
科学も未発達で、祟りや神仏の罰が信じられ、道徳はおろか、命の価値すら軽んじられていた時代、それでも人々は、高みを目指し、少し高い位置に上って俯瞰的視野を得ることができ、尚且つ、なにがしかの理想を描いていたならば、それを掴もうと足掻いた。
理想などなく、保身や我欲ばかりに走る内外の敵に足を引っぱられながら。

そんな汚泥に塗れた義時が、思い描いていた理想に繋げて花開かせた、蓮の花のような存在が、泰時ではなかったのか、そう感じられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?