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考古学から学ぶわが町の歴史芦屋市    朝日ヶ丘縄文遺跡     

はじめに

この原稿は、万葉集や古事記、日本書紀で芦屋の地はよく登場し古代から人々が居住していたことは理解していた。長くそれらの書からそして近くの縄文遺跡、弥生時代の遺跡、古墳時代の古墳に関する発掘調査報告、考古学者の研究論文と芦屋市史など信頼できる研究論文、学術調査報告等と山歩きの際現地を撮影した画像などの取材記録を10冊近いノートから精査してこの記事を書いています。

朝日ヶ丘次要文遺跡の碑

朝日ヶ丘縄文遺跡の発見
 六甲台地に位置した標高50メートルの場所で発掘された。この地は、沖積平野を望む場所で、1964年道路整地に伴い発見され1973年1981年、1988年と第4次に及ぶ発掘調査が行われている。
 地質時代の180万年前から160万年前の更新世末期から完新世の紀元前 8.000年前とされ縄文時代とされ、氷河時代が終わり豊かな自然環境で狩猟、採集を貴重として造形的な土器文化発展させた遺跡である。
 遺構は表土1.5〜2メートルの地山面があり地山は南北方向に幾筋ものうねりを低い部分には花崗岩の巨石を含む流石群が厚く形成している。数万年まえの二次的性格の強い包合層がそれを覆う形で遺存している。北山面の一部には住居跡と推定される加工面や土器が集中している。
 出土した遺物は、12000年前から2万年前の先土器時代後後期に属する旧石器と8000年前の縄文時代前期の土器、石器であり、断続的ではあるが長期間人々が往来し居住していたことが考えられる。


縄文時代の海岸線

20.000年前の後期石器時代の海面は、現在の海面より100メートルばかり下部にあった。淡路島は山脈であり人々は今の大阪湾海底を歩いて紀淡海峡付近まで往来していた。

深鉢羽島下層Ⅱ式 浅鉢北白川下層Ⅱ式 山形縁深鉢北白川Ⅱ式土器

縄文土器は、アカガイやハイガイなど二枚貝の貝殻腹縁をこすりつけた条痕や爪形状の押さえ跡が模様の主体を占め、平鉢の深鉢と見られる破片が多く瀬戸内海と交流があったことが考えられる。

上左から 石鏃 有舌尖頭器 ナイフ形石器 下 サヌカイト

200点に三角の形にした石鏃は丁寧に丁寧に作られていた。中にはサヌカイト以外にチャートや黒曜石製のものも少数ながら含まれ付近に原産地がないので他地域との交易が想像できる。最も古い石器には、東北や九州地方との関連があるサヌカイト製のナイフ形石器、刃器 削器 捜器 彫器 尖頭器 石核 有舌尖頭器の遺物である。
 同時代の石器には石鏃、石匙 刃器 石斧 叩石 磨石
 砥石があり付近に原産地がなく遠隔地との交易が想像できる遺物である。東日本とは異なり近畿地方は縄文時代の遺跡が少なくこの遺跡で発掘された柱穴の遺構は縄文時代の生活跡として注目された。    

貝塚跡  海岸線が近く食料として魚介類が食料として食べられていた痕跡である。
    塵埃捨場? 環境的に考えてもは高度な生活の高度な生活が想像できる。

縄文時代のこと

縄文時代の起源は、最近の較正炭素年代法では16.500年前から2800年とされている。較正炭素法とは死んだ生遺体から一定の割合で減少する放射生炭素14の残存量による年代測定法である。欧米の研究者は較正炭素年代法らよる測定であるが日本では認めない研修者が存在するので年輪測定法として樹木の年輪の幅の変化を利用する年代測定の方法では、縄文時代は、16.500年前から2800年前となり従来の学説とは異なっている。
朝日ヶ丘縄文遺跡は自宅近くであり散策の際、朝日ヶ丘集会所によく訪れよく展示されている遺物や記録されている遺構の画像はよく観察していました。ていました。歴史に関心があり、信頼できる書として芦屋市市史をよく読みさらには現地の調査や調査報告を度々記録していました。この朝日ケ町地区は現在マンション等の住宅密集地となりはている。40年近く前は里山で松茸が取れていたとのことです。
現在も里山は豊かな自然に恵まれ、六甲山の山歩きを私もそうですが多くのひと休日には見られます。        
 8.000年前の縄文時代の人々は、発掘された貝塚跡や石斧など縄文土器などの生活用品を見ると自然のなかで鹿や猪をおったり木の実海岸で魚介類をとって豊かな暮らしをしていたことが遺構や遺物で判断できた。
             

 

遺跡発掘遺構記録
遺跡発掘遺構記録縄文時代竪穴住居柱跡

遺物との対話


この時代、言葉として残された遺物はなく、土中から発掘された8000年前に使用されていた縄文土器や石器とそして魚介類の食材、そして廃棄された生活用具、石組みで補強された竪穴式の住居跡等の生活の場から研究されていた知識で判断させられた。 
 自宅は標高60メートルではあるがこの地に住む者として、12.000年前から20.000万年前にすでに人々が居住していたとのことを知らされあまりにもその長い歴史の人々の営みが過去に存在していたのかと驚かされた。
 最近、古事記と万葉集の和歌と日本書紀に基づき日本人の起源について調べた際に高度な学術的な研究論文が存在していることを知らされた、それによると
 最近の人類学研究によると「アフリカ」で500万年前に誕生した人類は、約4万年前には日本列島に到達していたと確認されている。局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)とは、いまより約4~3万年前の後期旧石器時代初頭に登場した、刃先に磨きをかけた石斧のことである。大形獣の狩猟や解体、木の伐採や切断、土掘りなど多目的に用いられたと推定される。 石材は、黒曜石、珪質頁岩、チャート。サヌカイト、ガラス質安山岩などを利用している。この年代は、日本出土ものが世界最古とされている。1949年群馬県の岩宿遺跡で発掘されている。作家の白洲正子も新石器時代よりはるか過去から石斧等を日本人が使用していたと語っている。さらに日本語の成立は3500年前に成立したと考えられている。中国大陸から漢字が入って来たのは3.4世紀である。比較言語学の研究では「他国大陸の言語と全く類似性のない系統の不明な孤立言語だと研究されている。」
さらにDNAの解析により3万年前の古代日本人は大陸や東南アジア系統の住民と全く異なる遺伝子で同じ遺伝子を持つ人は見つからない。別人種だと研究されている。
 また日本語の起原は、サンスクリット語、南インドのタミル語ともされているが世界のどこの言語体系と類似していいないとスタンフォード大学に研究論文に掲載されている。三島由紀夫さんもも白洲正子さんもこのような考古学的な信頼できる歴史を知って、言葉として残されてきた日本語に教えられ語ったことだったのか。 さらに日本の縄文文化は16500年から2800年前まで1000年以上継続した文明である。世界史上人類史上このような高度な文化は存在しないと発表されている。


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