会話を恐れる?

叱られる(指摘を受ける)話を考えた時に、私は何を理解していて何を理解していないのかの共有が下手かもしれないなぁという思いを得た。
実際、自分からなにかを話すのは苦手であるし、話のチューニング(相手に合わせて要素の出し入れをしたり、構造の整理)をするのも苦手である。
この苦手さは何に由来し、解決は図れるのであろうか。

話をする。というとかなりの苦手意識が出るが、「情報を共有する」というと不快感は減る。もちろん、うまくはないのであるが、嫌な感じはしない。
情報を共有すると言った際には明確な目的意識がある。(もちろん、話をする場合も目的意識はあるのだが、明言されきらないことが多いように思う。)

目的の有無によって何が分かるかというと、「言い訳ができるかどうか」のように思う。
目的があると、「目的があるからしょうがない」と思えるのである。

この"しょうがない”は何を恐れているのであろうか。
イメージできるのは「相手を不快にさせること」である。不快にさせ、怒気を浴びることを恐れている。なんらかの中身があれば、「嫌だけど、用事があるからしかたがないよね」となるように想定している。

ただ、それは最善でないように思われる。最善は「相手の間をきちんと見て必要なこと・必要でないことを話すことである。」
相手の間を見るための要素は何があるだろうか。

相手の繁忙・相手の気分あたりであろうか。
繁忙は緊急の案件がない限りは、大きく変動しない。気分は分かりにくい変数で大きく変動する。気分をどう見極めるかがかなりの勝負である。

表情やら、声色やら、雰囲気やらで判断、、、できるらしい。判断できるようになりたい。
さらには、きちんとそれを感じてから話しかけるようにしたい。


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