もう1人の自分の歴史の話

1.夏目漱石の危篤
明治43年8月24日、東京朝日新聞では修善寺で療養している夏目氏の病状が良好であることが報じられた。しかし、その日の夜、午後8時半、修善寺では一瞬にして異常の光景が現れることとなる。
かねてより病で床に臥していた夏目漱石は、800グラムだか、500グラムだか、とかく多量の血を吐き。危篤に陥った。いわゆる「修善寺の大患」である。この時の漱石は30分ほど意識を失っていたが、目が覚めてから鏡子にそのことを教えてもらい、初めて漱石の知る所となった。随筆では「三十分の長い間死んでいた」と回顧している。この大患の日から5、6日後、漱石は不思議な体験をする。随筆『思い出すことなど』ではこう記す。

床の下に水が廻って、自然と畳が浮き出すよう に、余の心は己の宿る身体と共に、蒲団から浮き上がった。より適当にいえば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団がどこかへ行ってしまったのに、心と身体は元の位置に安く漂っていた。

この記述から、漱石は、世にいう幽体離脱を体験したらしいことを伺い知れる。このことは漱石にとって「楽しい記憶」で「幸福の記念」としたそうだ。結論からいうとこれは貧血のためで起きたものであったと漱石は語る。医学には全く通じていないので、本当に貧血のせいで、幽体離脱のような体験ができるのか分からないが、幽霊の正体が枯れ尾花なことが往々にしてあるように、幽体離脱もまた意外にも身近なものが原因なのかもしれない。

2.もう一人の自分の正体と抜けていく魂

幽体離脱や生霊、ドッペルゲンガーのような「もう1人の自分」の現象は日本では総じて近いものであった。江戸時代、これらは俳句などにも題材として使われ、「離魂病」や「影の病」「影の煩ひ」と呼ばれていた。体は家にありながら、魂が抜けて愛する人へと会いに行くといったことがあったそうだ。このような話は『狂歌百物語』に見え、後世にラフカディオ=ハーンが英訳したことも知られている。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』の「生霊」を見てみると、恨めしげな顔をした女の霊が刀などのある方を見つめているが、これも男に会いに来た女の生霊だろうか。
「恋」と「魂が抜ける」ことが結びつけられる例は、日本では古代から見られる。例えば『伊勢物語』110段があげられる。

昔、ある男にこっそりと通う女がいた。その女は、以前から男に「今夜、夢であなたがお見えになった」と言っていたので男は「思ひあまり 出でにし魂の あるならむ 夜深く見えば 魂結びせよ」(私があなたのことを思うあまり、体から私の魂が出てしまったのでしょう。夜遅くに見えたら魂結びをしなさい)

『伊勢物語』注釈書によると、この話の男は在原業平、男が密かに通った女は藤原高子と解釈される。また「魂結び」は陰陽道の「招魂祭」に由来するものと説明がなされている。魂が見えた方を向いて、衣の褄を左に結んで「たまはみつ 主は誰とも 知らねども 結びぞとむる したがへのつま」と3回唱える。その後、魂が落ちたところの土を取って、優れた陰陽師を呼び、自分の家の近くに埋めさせて、三日後、結んだ褄を陰陽師に解かせる呪術だそうだ。「招魂祭」は「たまよばひ」とも呼ばれていた。藤原道長の娘の嬉子が皇子を産んだ二日後に、赤疱瘡によって18歳で亡くなってしまった。そこで道長は、風雨の中、陰陽師中原恒盛と右衛門尉三善惟孝に命じて、嬉子の部屋のあった寝殿の東対屋の屋根に登らせて、嬉子の服を持ちながら、北を向いて魂が戻るように呼び掛け、招魂させた。しかし当時でもあまり行われなかったことのようで藤原実資は『小右記』で「最近は聞かないことである」と評している。恒盛が招魂を行ったことは問題になったようで、上司に罰金を命じられたということもあった。また和泉式部が夫を思って、貴船神社に参篭した際に蛍を見て詠んだ「もの思へば 沢の蛍も わが身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る」の和歌からも「恋」と「魂が抜ける」ことの関係が伺える。

魂は鼻や口から抜けるものと考えられていたようだ。『宇津保物語』の「口がなかったらどこから魂が出るだろうか」の一文からも伺える。くしゃみをすることで魂が抜けるとも考えられていた。『嬉遊笑覧』では京都の習俗として生後一週間の子がくしゃみをすると白紐を結ぶということが紹介されているが、これはくしゃみにより魂が抜けてしまうためと考えられている。くしゃみをしたらおまじないをするという風習は有名な古典にも垣間見える。『枕草子』では「にくきもの」として「はなひて(くしゃみをして)誦文する」ことが挙げられ、また『徒然草』では年老いた尼が「くさめくさめ」と言いながら清水寺に向かっていたのである人がなぜそのようなことをしているのかと尋ねたところ、尼は「くしゃみをしたら、このように唱えなければ死ぬというが、私の養った比叡山の稚児でいらっしゃるお方がもしかすると今くしゃみをしているかもしれないので、このように唱えているのだ」と答えた話がみえる。故実書である『簾中抄』によるとくしゃみをしたら「休息万命救急如律令」と唱えたそうだ。

「生霊」も古代から見られる。『源氏物語』の六条の御息所のことは広く人口に膾炙している他、『枕草子』では「おそろしきもの」に「生霊」を挙げている。また三蹟の1人の藤原佐理が勅書を清書するとき、同じく能書の兼明親王の生霊が邪魔をした話(江談抄)や藤原伊尹が官職を互いに争った藤原朝成の生霊に祟られた話(『古事談』)が残っている。また『今昔物語集』「近江国の生霊、京に来て人を殺せる話」はさながら現代の怪談のような恐ろしい話であるので少し長いが訳していく。(~~の部分は欠字)

 今は昔、京から美濃、尾張あたりに下ろうとする下郎の男がいた。京を夜明けに出ようと思ったが、夜遅くに起きて出発をしていた。ちょうど、なんとかという辻から大路に青ばんだ着物を着ていて、裾を引きずっている女性がたたずんでいたので、男は「どんな女がいるのだろうか。まさかこんな夜中に1人で立っているわけがない。男と一緒だろう」と思いつつ、女の横を通ると女の方から「そこにいらっしゃるお方さん、どちらに行かれるのでしょうか」と尋ねてきた。男は「美濃、尾張の方へ下るのです」と応えると、女は「それはお急ぎのことでしょう。しかし私には是非とも申し上げたい大切なことがあるのです。少し立ち止まってくだされ」と言ってきたので「それはなんだろうか」と言って立ち止まったところ、女は「このあたりにある民部大夫の~~の家はどこにありましょうか。そこを目指していたのですが、迷子になってしまったのです。私をそこまで連れて行ってくださいまし」と言った。民部大夫の家は男の着た道とは逆であったため、道を教えるだけに留めて、立ち去ろうとしたが、女は「とにかくも、きわめて大切なことなのです。どうかお連れください」と言ってきたので、男はしぶしぶこれを承諾した。女は「大変うれしい」と言って、歩みを始めたが、その様は奇妙で、恐ろしくも感じられたが、「気のせいだろう」と思い、民部大夫の家まで送り届けた。門の前に着くと、女は「こんなにもお急ぎのお方がわざわざ、送ってくださったなんて大変嬉しゅうございます。私は近江国の~~に住む~~というものの娘です。東国に向かわれるときはそこを通るでしょう。そのときは必ずここにお立ち寄りください。気がかりなことがありましたので」と言い、前に進むや否や女は消え失せてしまった。
 男は「門が開いていたらそこから入ったと思うけども、門は閉じている。一体なんだろうか」と思い、身の毛も立つほど恐ろしく、硬直したように立ちすくんでいた。そのうちに門の中から突如、人の泣く声が聞こえた。なにごとかと耳を立てると、どうやら人が死んでしまったようだ。めったにないことだと思いながら、しばらくその辺りをうろついているうちに、夜も明けてしまったので、この家の知り合いに事情を尋ねると、「近江国の女房の生霊に憑かれたといって最近よく民部大夫様は尋常でないほどに苦しまれていましたが、今日の夜明けに『あの生霊が現れたようだ』といって突如亡くなられました。あれはこのようにまざまざと人を殺すものであった」と語った。これを聞き、男もなんだか頭痛がしてきて「女は喜んだが、女の気によるもののようだ」と思って、東国へ下るのも1日延ばして、一旦帰宅した。
その後、3日ほどかけて歩を進めていたが、女の教えた場所へ近づいたので、「女の言ったところを訪ねてみよう」と思って、行ってみると本当にそれらしい家があった。家人を通して事情を説明すると、女は「心当たりがします」と言って、男を呼び入れ、御簾ごしに対面し、「あの時の夜の喜びは未来永劫忘れません」などと言い、食べ物や褒美を与えた。男は怖いと思いながらも、物を貰ってから、旅を再開した。生霊というのは自覚なしに体から出るものだと思っていたが、この話を見てみると、なんと本人が自覚していることであった。この話は民部大夫が女を妻としたが、離婚したので恨みをなして生霊となり殺してしまったのだ。そうであるので、女の心は恐ろしいものであると、いろいろに語り伝えたという。

この話の締めからは生霊に関して無自覚で出ていくものだと考えられていたことが伺える。

3.新しく現れたドッペルゲンガー
「幽体離脱」「生霊」の例を見てきたが「ドッペルゲンガー」はどうであったか。まずは近い例から見ていくと、芥川龍之介は『二つの手紙』や『歯車』などドッペルゲンガーに関係する小説を書いているが、彼自身もドッペルゲンガーが見えたそうだ。岩井寛の『芥川龍之介』によると芥川はある座談会でドッペルゲンガーの経験があるかという問いに対し
「あります。私は二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現れました」と答えたところ、錯覚か人違いでないかと聞かれ、「そう言ってしまえば、一番解決しやすいですがね、中々そう言い切れないことがあるのです」と言ったそうだ。帝劇と銀座というと『歯車』で「第二の僕」が見られたところとしている。「僕」自身では見たことはなかったそうなのだが、一度は「K君夫人」(恐らく上山草人の妻山川浦路)が帝劇の廊下で、二度目はもう故人となった片足の翻訳家が銀座のある煙草屋で見たそうだ。もしかしたら『歯車』のこの一節は自分の体験をそのまま小説にしたのかもしれない。また芥川は、江戸時代の随筆『奥州波奈志』に見える「影の病」の話を自身の創作ノートに書き留めていたそうだ。その話では北勇治という人が家に帰って自分の部屋を開けてみると、自分と寸分たがわぬ格好をした男が机によりかかっている。顔を見てやろうと思って、近づくと男は後ろ向きのままで出ていき、すぐに見えなくなってしまった。そのころから勇治は病気になり、やがて死んでしまった。北家では以降三代続けて、こういったことがあったそうだ。ドッペルゲンガーは見たら近いうちに死ぬと言われているが、江戸時代のこの話はまさにその特徴に合っている。寡聞にして古代や中世のドッペルゲンガーのような話は未見である。一応、御伽草子『俵藤太物語』では平将門の分身伝説が語られていたり、『古事記』では雄略天皇が臣下を連れて葛城山へ行幸した際、向かいの山の尾根に全く同じ行列を見、弓を放つが、後に一言主大神と判明したという話がみえたりする。また『続日本紀』宝亀10年6月23日条には周防国周防郡の外従五位上の周防凡直葦原の賎奴の男公が、すでに亡くなっていた他戸親王と称し、人々を惑わしたために伊豆国に配流された事件が見える。恐らくこの話が脚色され、『水鏡』ではおどろおどろしい話が語られている。宝亀9年2月のこととして、他戸親王がまだ生きていることを、ある人が光仁天皇に伝えたところ、光仁は再び他戸親王を東宮に立てようとしていたので、人を遣わせた。しかし藤原百川が「本当のことを申すでない。もし言ったら、国は傾いてしまおう。気軽に生きているような者と思うな」と伝えたので、使者は百川を恐れつつも他戸親王を見に行くと、死んだと聞いていたのに、少しも悪い所が無くいらっしゃった。驚きながら、帰って百川には「その話は嘘であって、偽物でありました」と伝えたが、親王の乳母や仕えていた人が集まりで騒ぎ立てるので、使者は「もし嘘を言っているなら、両目が落ちるだろう」と誓いを立てた。人々はここまで言うならと偽物だったのだろうと、親王を追い出しところ、程なくして使者の両目が抜け落ちたと語られている。しかし『大日本史』でも指摘されているように、この話はなかなかに信ずるに足らない説である。以上に挙げたこれらの話はドッペルゲンガーの話とは少し趣が異なる。『今昔物語集』巻31「灯火に影移りて死にたる女の語」はわりかし現代のドッペルゲンガーの話にも見えるが、火の中に見える点は現代のそれとはやはり違うだろう。

4.本当に起きた「もう一人の自分」事件
しかし同一人物が、本当に、何人も現れたという事件が平安時代後期にあった。
八幡太郎の名で有名な源義家の次男、前対馬守源義親が、大宰府の命に従わず、九州で乱行を働いたことから康和4年に隠岐国に流された。しかし配流先の隠岐から出雲国に移動し、義親は狼藉を働いたため、院の近臣として力をつけ始めていた平正盛を嘉承3(1108)年追討に向かわせた。戦いは10日ほどで決着がついたようで、首が都に運び込まれたときは大路渡しののち、梟首された。しかしその9年後、越後国に源義親を名乗る法師が現れ豪族の平永基に匿われていた。しかし永基に義親は首を切られ、都に首が送られたが偽物と認定された。今度は保安4(1123)年、常陸国にも源義親が現れた。この義親は源仲政(源頼政の父)が追討し、都に連れられ、検非違使に引き渡された。白河院、鳥羽院も見物したが、偽物と判断されたそうだ。また大治4(1129)年には別の源義親が上洛を果たした。この義親は一条北辺に家を構えたが、鳥羽上皇の指示で、藤原忠実の宇治の別荘に移された。その後、別荘焼失のために忠実の邸宅鴨院に住むこととなった。鴨院にいる間、義親の妻で、高階基実の娘が宣旨で呼び出され、この義親と対面したが「全く義親でない」といい、また源家定も強く偽物だというが、一方で義親の仕えた藤原宗通の後家や伯父の隆教は本物であると主張した。翌年の8月、またまた別の義親が、近江国大津に現れた。これをうけ、9月には再び、本物の義親の首実検が行われ、鴨院の義親は偽物とされた。
10月、2人の義親は検非違使源光信の邸宅の前で合戦に及んだ。群衆に見守られる中、鴨院の義親が大津の義親を捕えた。その後、大津の義親は「私は義親ではない、人によって名乗ることとなった」と白状し、ひとまず落ち着いたように見えたのだが、11月、鴨院の義親は突如従者もろとも夜襲にあい、殺されてしまった。夜襲の犯人として真っ先に疑われたのは源義親の乱で功を成した平忠盛であったが、正盛はこれを否定、事件の犯人は私が捕まえると答えた。この後、邸宅の前で乱闘を起こされた源光信が犯人ではないかという話が出始め、光信とその従者の配流、また弟の光保の解官でひとまず落ち着いた。以上が事の顛末である。なぜ偽の義親が現れ始めたのかについては当時の政治的背景によるとも言われている。『中右記』によると平忠盛はたしかに源義親の乱を治めた功がありつつも「最下品の者」でありながら、白河院の「殊寵」によって出世をしたと記している。そのため忠盛の出世に対する反抗だったとも考えられている。

【参考文献】(副題略、順不同)
山田雄司『怨霊とは何か』中公新書 2014年
元木泰雄『河内源氏』中公新書 2011年
高橋昌明『清盛以前』平凡社 2011年
西郷信綱『古代人と夢』平凡社 1993年
下向井龍彦『武士の成長と院政』講談社 2001年
夏目漱石『思い出す事など 他七篇』岩波文庫 1986年
河合隼雄『コンプレックス』岩波新書 1971年


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