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想像力を積み重ねて

硬い…。と思った。

ビジネス書を勧められたときの感じたことだ。画数のおおい漢字とカタカナ、謎のグラフと横文字の出典が、ラグビーのスクラムのようにみっちりと陣形を組んでいて、圧倒的な威圧感を放っていた。

読み進めるにつれて、スクラムがじりじりと圧迫してくるイメージを受けてしまう。ビジネス書を何度も挫折してきた理由がこれだ。いつなんどき読んでも集中力が文字の上を滑り、意識が離れていってしまう。

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世の中のたくさんの人は読めているのに、なぜ自分は集中できないのか……。あきらめずに文字を追いつつも、すでに思考は別の場所へと旅立っている。

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考えてみれば、文字から”硬い”という印象を抱けるのは不思議なことだ。

文章は文字の羅列であって、文字は触ることができない。つまんで弾力を知ることも、触れて温度を知ることもできない。それなのに僕らは日常で、お硬い文章だな、とか、あたたかい文体だな、とか感想を意識せずに発している。

言葉から触感を、無意識のうちに関連付けているわけだ。何がどうなっているのか、自分でもわからない。

説明できない感覚を持っている人は友人にもいた。ずっと美術部だった友人はカメラで写真を撮るとき、ものすごく時間をかけて構図を突き詰める。

その人はキャンバスの範囲やカメラのフレームを把握していて、突き詰めていない構図を見たとき、理由はわからないけれど気持ち悪いと感じるそうだ。そうして違和感を一つ一つ消していった結果、たしかにスッと風が抜けるような印象の写真が出来上がっていた。

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僕には画面の違和感をそこまで敏感に感じることはできないけれど、友人もまた言葉から敏感に印象を感じることはできないという。

言葉から触覚を、画面から気持ち悪さを、それぞれ僕らは感じている。きっと僕ら以外の人間も、それぞれ予想もつかないモノと感覚を結びつけているのだろう。

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ある事象から全く関係のない印象をイメージする能力――例えば音楽から色を。例えば数字から嗅覚を。――を、シナスタジア(共感覚)というらしい。(以下、シナスタジア)シナスタジアは本来関連することのない事象を結びつけてしまう”脳のバグ”だという。

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マンガや小説では、ほかの人にはない特殊能力的な描かれ方をする。音楽に対して聴覚以外の判断基準・色をもち、目的に色に少しずつ合わせていくことによって、創りたい音楽を完成させていく、といったように。

そしてその能力は、自分の内にだけ作用するわけではない。お客さんのある印象を抱かせたいから、この色の音を出そう、といった外側への応用も可能だ。何かを作る人が、喉から手が出るほど欲しい能力でもある。

正直、書いてる僕も欲しい。(メリットだけでないのもわかっているうえで)

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さて。何の前触れもなく、あまりにもかけ離れたものを結びつけるから”シナスタジア”と言うけれど、スケールを小さく考えれば日常に存在するものではないか、僕は思う。

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この言葉を言ったら、この絵を見たら、相手はどういう気持ちになるか、どんな心象になるのか。冷たいのか、暖かいのか。硬いのか、柔らかいのか。一つ一つ、丁寧に想像する。経験して記憶して、感覚にしていく。想像を積み重ねることで、シナスタジアらしきものを創りあげられる。

例えば商業的な文章を書くとき、ライターなり記者なり書く人と、書く人を船頭する編集者が2人3脚を行って書く。彼らは言葉のプロだ。

文字が与える印象と羅列した文章が与える印象、本来の持つ意味以上のものを把握して、読み手にどんな影響を与えるのかすら予測している。

文字と文章が元々持っている意味以上を把握する能力。きっとそれは想像力を突き詰めたものだろう。たくさんの文章を読み、たくさんの失敗を繰り返して得た想像力の到達点。

努力次第で、憧れと似たようなものは身に着けられるというわけだ。

能力ってきっと人それぞれ、大差はなくて。

自分ににない能力は、本人の心持ちや環境にもよるけれど、大体はどうにかなるのだと思う。

先天的なモノと後天的なモノにしても、違いは先に身についているか、あとに身に着けるかの、ちょっとした差。

他人の先天的能力がうらやましく見えても、きっと後から身に着けることができる。

そして自分を見つめなおしてみれば、他人には――ビジネス書を読める人にも、画面から違和感を感じる友人にも――ない、自分だけの手札があるかもしれない。

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ほかの人の長所をすごいな、って思って、妬むことなく、見習って。自分の手札を確認して、丹念に育てて。そうやっていつか、頼りがいのある人になれたらいいな。

相変わらずビジネス書の文章は"硬い"ままだけれど、気持ちは少しだけ柔らかくなった。



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