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毎日を、『あっ』という間にしないために

「『一年はあっという間』っていうけどさ、じっさい『あっ』て言っても一年は過ぎなくね??」

小学生のころに言った言葉。

あのときは本当に毎日が遅くて、楽しいことはたくさんだったから早く明日が来てほしくて。これでもかというほど首を伸ばし、次の日、次の週、次の季節を待ちわびていた。

あれから15年ちょっと。

なんだか今は、とても早く一日が過ぎ去ってしまう。

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ガラス越しの毎日

ここ数か月ほど、あらゆる物事が通り過ぎていってしまうような感覚にずっと悩まされている。

日々に感触がないというか、目の前を通り過ぎていく感じ。ガラス越しに自分の生活を見ているような気持ち。

不安に近いこの感覚のせいで、やりたいこと、やろうと思っていたことを少しずつこなせているのに、なんだか楽しみきれないでいる。まさに一抹の不安というやつだ。

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これまでどうにか言いようのない不安に蓋をして過ごしてきた。けれどついこのまえ、硬く重いはずの蓋をどけてしまう、ある大事件が起こってしまった。

「iPhoneのメモがなくなってる!?」

深夜の中央線。声には出さなかったが乗り合わせた誰よりも狼狽えていたことだろう。

なぜなら、僕にとってiPhoneのメモはふつうのメモ以上の役割を果たしていたからだ。例えていうなら、安定剤、倒れないよう体重をかける杖。通り過ぎてしまう毎日をどうにかつなぎとめていたもの。それが僕にとってiPhoneのメモなのだ。

意識的に印象に残った言葉や、文章、出来事を―――小説やマンガ、アニメ、歌、ツイート、Instagramのキャプション、友人が何気なく発した、じんわりと染み渡るラインの一幕まで―――日常が通り過ぎていくような違和感は、認めないまでも薄々感じていたから、通り過ぎる言葉たちを丁寧に書き留めていった。まるで、宝物をを飾るかのように、多少の後ろめたさを持って、丁寧に。

「今はこの素敵な匂いのする言葉たちを味わい尽くせないけれど、いつかそれぞれに想いを巡らせてみよう。」

そう思ってぎりぎりのところで、必死に、忘れないように、取り逃さないように、かき集めた言葉たち。倒れないようにと願いを込めて、少しずつ音も出さずに画面の中で組み上げていった言葉の杖。

毎日を支え、不安に蓋までしてくれていたそのメモが消えてしまった。嬉しみや憧れや、切なさ、言葉にできない、胸がぎゅとなるような感情を内包していた大切な言葉たちを、失ってしまったのだ。何も知らないで過ごしているうちに。

喪失感と虚無感が、瞬く間に気持ちを埋めつくす。

容量の問題とか、日にちの問題とか、要因はいろいろあるけれど、根本について考えてみなければならない、そんな気がした。

一日が長いわけ

日常の他人感には覚えがある。

以前、noteにも書いていたのだけれど大学生の頃のことだ。

けれどこの時とは状況が真逆。無気力ではなく、やる気にはあふれている。それなのに言葉一つ一つに想いを馳せられない。言葉には出会うのに素通りしてしまう、いまの感覚のほうが、学生のころ出来事よりよっぽど怖い。

そして怖さについても、やっぱり書いている。忘れてちゃザマぁないな。

このときはどうだったろうか。

たしか、そう。大学生の頃はバイトと授業がすべてだった。

決められた道からはみ出さないようにお行儀良く、そしてレールに甘えていた。何を決めなくても、運ばれるべき場所に運ばれるようだけだ、と。しかし次第に頭は活動を停止していき、空虚な気持ちに包まれてしまった。あのとき、余裕が必要なのだと結論を出した。それで一時は解決を至っていた。

なにがちがうのだろう。とりあえず理想に過ごし方を思い浮かべてみた。

毎日がワクワクしていて、それでもたくさんのことを考えて、一日が長く、次の日を待ち遠しく思う日々。

そうして考えていたとき、小学生の下校途中の風景を思い出した。

・・・

「一年はあっという間っていうけどさ、『あっ』て言っても一年は過ぎなくね??」

新学期に慣れてきた9月の終わりくらいの帰り道。正式名称がいまだにわからない、公園と雑木林のあいだみたいな敷地横の道路で友達とはなしていた。明日も明後日も明後日も楽しみなことがあって、それでも今日も楽しくて、一年がとっても長く感じられた。「『あっ』という間」の意味が解らなかった。

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もしかしたら学生までの頃は、日々の世界が狭かったのかもしれない。

起こる事柄はクラスやバイトのコミュニティの、さらに同じグループの中でのこと。それだけを考えていればよかった。だから些細な感情のざわつきに気が付くけたのだろう。

けど今は違う。

曲がりなりにも社会に出て、記事の依頼を通じてメディアの人と関わり、取材先の方のお話を聞き、撮影スタジオに関わる方々と話し、バイトでもお客さんと言葉を交わし、オンラインイベントを通じて多くの人と出会う。カメラや本といった趣味では、大勢といっても大げさではないほどの縁が縁が生まれ、仕事にもつながった。学生の頃とは比べ物にならない広さと深さの人間関係だ。

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自分で選んだ結果がもたらした、これまで身を置いたことない、広く新しい状況。得られるもの沢山ある。けれど出来事が通り過ぎてしまうようになった。

今回の原因はこのあたりにありそうだ。

トレードオフの社会と自分

原因はきっと、社会と自分の関わり方にある。もっといえば生活における力の配分。

生活とは社会と自分のトレードオフなのだ。どちらかが領地を広げれば、どちらかは犠牲を強いられる。そして最大値はある程度決まっている。地続きだと思っていたけれど、そうではないのだ。

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「いつでもどこでも全力で」は、少し無理があるのかもしれない。

どのコミュティが今は力を抜くことができて、どこが今ませに力を注ぐべきなのか。決してなにかを蔑ろにするわけではなく、力の強弱を身に着ける必要があるようだ。

感じて考えた結果があってこそ、書く言葉が生まれるのだから。

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「学生気分が抜けない」この言葉を身をもって痛感するとは思いもよらなかった。

けれど自分を誇らしく思う発見もあった。感じ取ることは、これまでずっと続けていたのだ。考えを巡らせる余力がないから、メモに留める手段をとった。

きっとメモの言葉たちは、自分の引き出しにしまってあるだけだ。またいつか、必要なときに思い出す。だからその時まで、思いつめずに待ってみよう。

そしていつの日か、日常が通り過ぎてしまうようなどうしようもない虚無感と、お別れできればいいなと思う。

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