校閲者のじかん・第6回「ジェンダーや差別について」

おはようございます。皆さまお元気でしょうか。
今日で第6回目の更新となりました。
思ったのですが、このnoteの更新のために、夜寝る前に数十分~1時間、パソコンのキーボードをカタカタしてから寝るようになって、非常に寝つきが悪くなりました。いわゆるブルーライトのせいでしょうか。いままでの人生、眠りで困ったことなどほとんどなかったのですが、ここ1週間は眠りが浅く、変な夢を見ます。これではいけないと思い、今後は寝る前ではなく、朝早起きしてこの文章を書いていこうかな…と考えています。とはいえ、そんなに簡単に早起きできるのかどうか。なかなか新しい習慣として何かを自分の24時間の中に嵌めるというのは、最初は難しいものなのだなと感じます。書きたいことは山ほどあるのですが。
さて、今回はちょっと社会的な(?)話題に切り込んでいきたいと思います。
タイトルにあるように、ここ数年でジェンダーを取り巻く環境は大きく変わりました。ある意味、前進したといえる部分もあれば、まだ人間がジェンダーレスに慣れていないという部分も非常に大きいように感じます。今回は、校閲者の観点からジェンダーや差別表現について少し考えてみます。

まず、性的に差別するような文章がどのくらい認められるのか? というところですが、基本的には「不快に思う人が確実にいる表現は注意」というのが言えると思います。とはいえ、その意識が行きすぎて「言葉狩り」のような状況になってもいけません。以下に例を示してみます。

①小説で、登場人物がゲイであることを周りの人間がけなす描写が出てきた。これはOKか?
→あくまで「小説」ですから、すべての描写が排除されてしまうのであれば、喫煙のシーンも殺人のシーンもなくなってしまいます。むしろ、性的に差別することの問題点を浮き彫りにするという意味では、こういった描写については作者の意図というものも大いにかかわってくるでしょうし、そこまで制限する権利は誰にもありません。
ただし、小説といっても、地の文で何のエクスキューズもなしに、あまりにも常識とかけ離れていることが描かれていたら指摘が必要でしょう。たとえば、「ゲイなどというものは生きる価値がない」と筆者の主観のような間合いで突如、地の文に出てきてしまうと、読者は面食らってしまいます。「ゲイは生きる価値がない」と登場人物の誰かが発言していた、とかであればもちろん構わないのですが。このように「筆者の差別的な思想が直接、発露されている」と解釈できる書き方の場合は、一考の余地があるというのは当然のことです。
では次です。

②小説ではなく、評論やエッセイの文中で自身の意見として「ゲイ(や同性愛者)は生きる価値がない」と書いているのはOKか?
→これは不適当です。社会通念上、そういった思想をわざわざ開陳するのは百害あって一利なし、となります。ただこれも、たとえば「30年前、小学校の担任の先生が『同性愛者に生きる価値などありません!』と話していて、その時私は子供ながらに強い違和感を覚えた」などといった「体験談」としての記述であれば、問題がない場合もあるでしょう。
ちなみに昨今では、「ブス」「デブ」といった(特に女性に対しての)「容姿いじり」というのが、たとえばお笑いの世界でも忌避されはじめてきている、という話題がありますが、これも大きな時代の流れ、ということでしょう。もともと、「ブス」「デブ」で笑うというのは非常に低俗的で、レベルとしてはかなり低い部類の笑いに該当していたといえますし(異論はありそうですが)、この流れは当然のことのように思います。最近では「オリンピッグ」の話もありました。芸人自身が容姿を自虐するのならまだしも、他人がけなすというのはここ数年でかなり制限されてきたように思います(ですが、「男性のハゲ」と「男性のデブ」などは無法地帯ですね…。とはいえ、一概に粛清するというのもどうかと思いますし、線引きがなかなか難しいところです)。

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