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その11:自分の身に起きたことは人生を学ぶチャンス(腰痛症発症20周年記念)

 マレーネ・ディートリッヒが歌う。

 「『望みは何?』と訊かれたら『幸福』と答えはするが、望みかなって幸せになったらすぐに昔が恋しくなるだろう。あんなに素晴らしく不幸だった昔が…」。

 この歌詞を読むと、いつも他のことを思い出し、20年前の自分のことを想像してしまう。不幸だとは言わないまでも、誰にでも不遇な時はあると思う。いくら努力しても、いくら頑張っても運が悪くてチャンスに恵まれないとか。そんな時、嘆き悲しむことはない。努力は必ず報われる。天は必ず見ていてくれると信じることだ。

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 50歳の10月初旬のことだから丁度20年前だなあ。

 以前から腰が痛いなと思っていたが、そのうち治るだろうと思いながら稽古を続けていた。ところが、椅子から立ち上がった途端、腰から両足にかけて激痛が走り歩くことも座ることもできなくなってしまった。もちろん稽古どころではない。その後3年半、剣道ができず精神状態も不安定だった。「私の剣道はこれで終わりか」と思ったし、「走れない体育教師なんて体育教師ではない。教員を辞めなくてはならないか」などと考えもした。

 そういう思いとは裏腹に、「何とかして治したい」、「もう一度竹刀を持って稽古をしたい」という思いも強かった。そういう希望があったから「決して諦めない」との思いで、腰痛症に効くという治療はすがる思いで何でもやった。同時に稽古ができないなら何かしようということで、できることは本を読むことだと思い、いろいろな分野のものを週2~3冊のペースで読んだ。子どもの頃から、父に剣道をやる者は本を読め、本を読んで教養を身に付けろと言われていたが、本を読むことしかすることがなくなってしまったのだ。

 しかし不思議なことに絶望感はなかった。半年を過ぎると、できる範囲で今までやりたくてもやれなかったことをやるのにいい機会だと思い始めた。とにかく稽古ができなくて精神的に苦労した分いろいろな経験をさせてもらった。自分で言うのはおかしいが、人に対して優しくなったし、痛い思いを経験して人の痛みが分かるようになった。

 本の名前は忘れたが、人生を考える機会の一つは、「病気や怪我で普通の日常生活が送れないとき」とあった。治ったから言えるのだけれど、時間的にもちょうど良かったのかもしれない。自分に起きたことは、良いことでも悪いことでも人生を学ぶチャンスだと今は思う。

 剣道修行というのは孤独な道だ。私にとって、稽古が出来ない間はそれ以上に孤独だった。私の痛みなど誰にも分からないし、気の毒がってもらっても他人事だ。それ以上に、いつ治るか先が見えないのもストレスが溜まった。

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 ところが3年以上過ぎた頃、かつて理科大学で1年間剣道を教え、医学部受験のため中退し十数年後に立派な医者となって東大医学部に勤務していた片山正寛医師と電話で話した。「元気ですか」という質問に、「腰が痛くて稽古は休んでいる」と答えると、「専門の医者がいるから一緒に会いましょう」ということで飯田橋の喫茶店で会った。専門医はこう言った。

「立って中段に構えて下さい」。

 テーブルの脇で構えて見せたら、わずか10秒見ただけで、「分かりました」と言ってのけた。3年以上苦しんだのに10秒で? 自信たっぷりなので理由を聞いた。

 「胸を張るために上半身を後ろに反らし過ぎです。上半身を後ろに反らすと、面を打つためには一度後ろに反動をつけないと前に出ない。その反動は体重と同じ重量が腰に懸る。体重が70キロの人は1回の面打ちに70キロの重量が腰に懸るし、10回面を打てば700キロ懸ることになります」。ではどうすれば良いか。

 「上体を5度前傾すれば反動をつけなくても面が打てます。つまり腰に負担が懸らないということです」。

 翌日痛みをこらえて早速やってみた。しかし50年近くその姿勢で稽古をしてきたのだからそう簡単に構えは変わらない。かなり前傾したつもりでも、横から見てもらったら前傾になっていない。2週間後やっと前傾姿勢が取れるようになったら、久し振りに私の稽古を見た人が、「腰が曲がっているぞ」と言った。多少曲がっていても痛いよりはましだった。それ以後やや前傾の中段で構えているので腰が痛くなったことはない。彼には本当に感謝している。遅蒔きながら、私の剣道は54歳の秋から再出発した。

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『Catch me if you can』という映画がある。レオナルド・デカプリオが主演した映画で面白かった。その映画の出だしでデカプリオの父親役のスピーチが興味深い。

 「クリームの入ったバケツにネズミが2匹落ちました。1匹目はすぐに諦めて溺れ死にました。2匹目は諦めずにもがき続けているうちに、クリームはバターになり、ネズミはバケツから這い出しました」。

 冗談だろう!と笑った。しかし、本気になって諦めずに一生懸命努力すると奇跡が起こると言う。映画の中の台詞だから当てにはならないが…。

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 あの3年半は本当にストレスが溜まった。剣道がしたくてどうしようもなかった。しかし回復した今、悩み苦しんだことは決して無駄ではなかったと思う。「腰痛症」が私にいろいろなことを教えてくれた。「人生に無駄なことは一つもない」ということも。 

 そのとき読んだ本の中に、日本のヒルティと言われる三谷隆正が著した『幸福論』(岩波書店)があり、幸福とは何かを記している。

 「心を磨き上げるためには、教養を高めねばならない。身体を磨き上げるためには、健康を大切にしなくてはならない。富や名は人生の随伴物、それらを得ることが人生の目的や意義を充実するものではない。人生で本当に大事なものは、人生を懸けて真に求めるべきものを徹底して追い求めることである。それが幸福に繋がる」

令和2(2020)年10月19日

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