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傘をさしてくれた人。

忘れられない人がいる。名前も知らないどこかの誰か。恋ってわけじゃない。けれど、心に何かを残してる。

生きていますか?

それだけでも確かめられたらいいのに。


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恋愛経験もまだ少なかった若き頃、あるバンドマンに夢中だった。彼の部屋で過ごす時間がただただ幸せで、この関係をなんと呼ぶかなんて知らないふりをしていた。友達に怒られようと、呆れられようと、彼に必要とされれば夜中でも会いに行った。


23:48  いま何してるの?これから会えない?

華の金曜日が終わる12分前。すでにベッドで微睡んでいたところに、彼からのメッセージ。彼からの連絡をいつだって待っている乙女に、NOなんて言葉はない。

慌てて着替えて化粧をし、最終電車に飛び乗った。


0:24  バンド仲間と飲んでてまだ終わんないからもうちょいかかる

そのメッセージを見た時にはすでに彼の家の最寄駅まで後1駅だった。もっと早く言ってくれれば良かったのに、と言いたくなるのをこらえて、"気にせず楽しんで。終わったらまた連絡してね。"といい子ぶって返信した。嫌われたくないが先行する乙女心とは厄介なものだ。


春先といえど夜はまだ冷える。家を出る時は暑かったはずなのに、目的の駅に着く頃にはすっかり冷え切っていた。駅のホームの自販機であったかいお茶を買い、数口飲んで冷えた体を温めた。

改札を出て見慣れた方向に向かう。相変わらず、これといって何も無い静かな街だ。寒さをしのぐため、唯一明かりが灯る駅前のコンビニに行くことにした。雑誌を読み、ケータイをチェックし、また雑誌を読み、またケータイのチェックを繰り返す。雑誌の内容は全く頭に入ってはこなかった。


いつまでもコンビニに居座るわけにもいかないので、ホットのミルクティーとホワイトチョコレートを買い、彼の家に向かって歩き出す。何度もふたりで歩いた道を、ひとりでとぼとぼと歩いた。


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深夜1時を過ぎても彼からの連絡はなかった。

酔いつぶれているのではないか、何か事件に巻き込まれたのではないかと、不安ばかりが募る。お得意の妄想で彼が酔いつぶれて路上で寝ていたところを拉致されるところまで想像して、慌てて電話をかけようとしたがぐっと堪えてメッセージ画面を開く。


春先といえど夜はまだまだ冷える。
大丈夫?まだかかりそう?
文字を打つ手が悴んだ。


1:26 まだ飲んでて電車ないし帰れない

それはつまり、今日はなしでってことだ。

ごめんもなしなのは、いつものことで。


暗い道で光る画面に、ぽつ、ぽつ、と水滴が落ちた。


ゆっくりと、次第に激しく降り注ぐ、心を反映させたかのような雨だった。


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終電はとっくに出てしまった。車の往来も少ない。雨で一段と冷える夜に、温めてくれるものはもう何もない。どうすればいいかなんてわからないまま、考えられないまま、止まることもできず、ただひたすらに歩いた。彼の家とは反対方向に。

歩けば歩くほど、雨足もまた強くなる。
肌寒い。心もひんやりする。
歩き続けて身体が重い。気分もどんどん重くなる。

シャッターの閉まった店の前で足を止め、コンビニの袋からホワイトチョコレートを取り出しひと口食べた。ほんの少し、心が和らぐ気がした。停止していた思考にエンジンをかけ、自宅の方向を調べる。どうやら随分と遠いらしい。そりゃそうだ。電車で20分の距離だもの。

冷たくなった頬を両手でパンっと叩き、再び雨の中に身を投じた。ここにいたってどうにもならないから。待っていたって彼は来やしないから。ただ自宅に向かって自分の足で歩くしかないのだから。


雨の中を歩くのも、ひとつだけ良いことがある。涙を流していてもそれが涙なのか雨なのかわからないところ。外でこんなに堂々と涙を流すことなんてなかなかない。今は気にせず泣きたいだけ泣けば良い。こんな深夜に人とすれ違うこともないだろう。


と思っていた矢先、前からひとり歩く人影が。


相手は大きな傘をさしているし、この暗がりのなかでは泣いているのなんて見えないだろう。そもそも、一瞬すれ違うだけの人にどう思われようがどうだっていい。深夜、雨の中傘もささずに泣いている女がいたら不気味で見なかったことにするだろう。そんなふうに思いながら、道路の端と端ですれ違った。

こんな夜更でも人がいる、ということになんだか少しホッとした。さっきまではまるで、真っ暗な独りの世界を歩いているようだったから。

少しずつ冷静さを取り戻し、ようやく地図を把握できるようになってくると、このまま真っ直ぐ行けば見知った道に通じることがわかった。あと30分も歩けば帰宅できる。見通しが立つと、また少し心がくっきりした。


ケータイの画面をハンカチで拭いて鞄に仕舞おうとした時、ふっと雨がやんだ。


私の上だけ。


大きな傘が、降りしきる雨粒を止めてくれた。


柔らかな声が、大丈夫ですか?と尋ねた。自身の肩を濡らしながら。"急にすみません。さっきすれ違って気になったもので…"とその人は言った。鞄から折り畳み傘を取り出し、"折り畳みがあるので、このビニール傘を使ってください"と言って、手に持つ大きな傘を差し出してくれた。

あまりに驚いて目を見開き立ち尽くしていると、"急にびっくりしますよね…すみません。昔、同じように雨の中を泣きながら歩いたことがあって、こんなふうに見ず知らずの人に傘をさしてもらったことがあるんです。なので、今度は自分がする時なんじゃないかと思って…"と俯きながら早口で話してくれた。

怪しみながらも礼を言って受け取ると、"夜道は危ないのでお気をつけて。帰ったらお風呂でしっかり温まってくださいね。"と言って足早に反対の方向に去って行った。


狐につままれたような気分だった。拉致されるのではないか…と訝しんだ自分を恥じたくなった。ありがとうございます、ただそれだけしか言えなかったような気がする。連絡先も交換していない。雨を凌ぐ大きなビニール傘の下、見返りを求めない純粋な優しさに、ただただ呆然としていた。



本当に必要なものは何か。

分かったような気がした。


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忘れられない人がいる。名前も知らないどこかの誰か。
恋ってわけじゃない。けれど、心に何かを残してる。

生きていますか?

それだけでも確かめられたらいいのに。








サポートとても嬉しいです。凹んだ時や、人の幸せを素直に喜べない”ひねくれ期”に、心を丸くしてくれるようなものにあてさせていただきます。先日、ティラミスと珈琲を頂きました。なんだか少し、心が優しくなれた気がします。