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「やっぱり人間向いてないわ」無料に溺れる時、時間泥棒に連れ去られて。

友人とご飯に行った時、私が「この人のこの服がおかしいと思うんよ。もっとこういう服着たらいいと思うんよ」と話した。友人は真っ直ぐな目で「その人のこと好きなの?」と聞いてきた。
好きじゃないよ。尊敬しているだけ。そう答えた。


私はいつから人の服を指摘するようになったのだろうか。服のセンスとは無縁な私がそんなことを言っているなんておかしいと思う。センスがあったにしろ、友だちでもない家族でもない人の服のセンスについていうなんておかしい失礼な話である。

幼い頃から「これがいい」と割と意志がはっきりしていた。だから、服もそう言っていたのだけれど、母親の好みではなかった場合買ってもらうことは出来ず、似合う服というのを着ていた。確かに母は服のセンスがよく、母が選ぶ服は結構な頻度で褒められる。
そうして、好きな服と似合う服は違うのだなと理解し、自分のお金で買うようになってからもそうした理解の元、購入していた。

その人の服がおかしいなんて、ありがた迷惑、恩着せがましい話だ。本人には言ってないけれど、全く馬鹿馬鹿しい話である。


YouTube、note、Twitter、Instagramなど、無料のコンテンツはたくさんある。時間を忘れて没頭してしまうこともしばしば。
結構なボリュームがあるとなかなか見るのにも根気がいるもので、嫌厭してしまう。
その時も全体を見た時にかなりの量だったため、仕事終わりの疲れた体に鞭を打つことになるなと思った。
スマホを閉じようしたが、やっぱり見たいという気持ちが勝った。仕事終わりの疲れた体にしみる内容であった。このセンスはどこから湧き出ているのだろうか。
この時代に生まれてよかったと思う。直接話す以外の発信の仕方の多さたるや。私はそういったコンテンツの一消費者として楽しませてもらっている。また、私のことを知らない人たちと関われるnoteは楽しい。自分の作り出した文にスキをもらえたり、フォローされたり。
この知らない人たちというのが重要で、もし私の肩書きを晒していたらそのイメージで読まれると思う。また、私もフォローされた人やスキをくれた人が、自分の大好きな人だったりすると、またフィルターがかかるのだ。それがないのが、フェアでいいなと感じる。目では確かめられないけれど確かに存在する人たち。


冒頭の服の話だが、決して貶したいということではなく、服がもっとよかったら、さらに良くなるのになと思った。だが、このバランスの悪さがわたしは人間味があって面白いポイントなのに、わたしの勝手なエゴが爆発した。人間は完璧でないからこそ、常に変化し面白い。だけど、どこかで完璧を目指してしまう。


生きていると問題はたくさんあるけれど、本を読んでいる時やこう言った無料のコンテンツを楽しんでいる時、私は現実の世界から離れることができている。現実の世界もそれそれは楽しいのだけれど、やっぱり楽しいことだけではなくていろんな想いは込み上げてくる。いつもそろばんを弾いているわけではないのだが、なんとなく考えていた。無料に溺れる時。
今の現実から離れたいからだと思う。でも、人に言いやすい素敵な方法だなと私は思う。

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