西洋哲学史を古代からニーチェまで一気に解説

ネオ高等遊民です

1時間、西洋哲学史について古代ギリシアからニーチェまで一気に話しました

このnoteを読めば、ざっくりとした西洋哲学史の流れや知識が身に付きます

例えやジョークもふんだんに入れていますので、分かりやすくて印象に残りやすい内容です

ちなみにこのnoteは、以下の動画の要約・文字起こしです

1時間の作業用BGMとして割と再生されて高評価を受けています

この動画の要約と文字起こしをしていただいたので、それを公開します

本当にありがとうございます

聞くと1時間ですが、読めば5分~10分程度です。

10分でおよそ2500年分の哲学史を学べる機会なので、よろしければお読みください

~以下本文~

今回は西洋哲学の古代から現代までの全歴史をざっくりと、というテーマです

哲学は古代ギリシャ時代に始まりました

文明自体はメソポタミアやエジプトがありましたが、哲学の始まりは絶対古代ギリシャで確定です

最初の哲学者はタレスという人です

なぜタレスかというとアリストテレスがタレスといったからです

アリストテレスがタレスと言っていなかったら最初の哲学者は別の哲学者だったかもしれません

タレスが言い出したのは

「万物の根源は水である」

という有名なテーゼなのですが、

これがなぜ哲学なのかという話になると

今までの世界観は、

神話などの物語付きの世界観で
理解できない神のヒント・深い考えのようなもので説明されていましたが、

神話や物語ではなく、今でいえば科学的な原理で説明しようとしたということです

「万物の根源は水である」

というのは
水というのはある意味・形のないもので、
変幻自在に移り変わり、全く止まってもなく、
水自身が存在もするし存在しないこともできる、あらゆる変化ができるということで根源という風にいいました

そのあと古代ギリシャの東の方の商業地域、港町でミレトス学派という哲学は生まれ、

タレスの後にアナクシマンドロスやアナクシメネスというのがでてきました

彼らは万物の根源について、無限定なもの、空気などといい、

それを一般に初期ギリシャ哲学と言ったり自然哲学といったりします

「万物の根源は火である」

「万物は流転する」

といったヘラクレイトスや

「あるものはあり、ないものはない」

と存在論を唱えたパルメニデス、

デモクリトスは

「万物は原子、それ以上分割できないものが構成要素だ」

と言いました

万物の根源みたいな話をずっとしていた中で
ソクラテスやソフィストが登場します

それが古代アテネの黄金期と呼ばれ、
そこではみんな裕福な暮らしをしだし、市民と奴隷という2つの階級社会ができました

古代の労働観は、現代でもだいたいそうですが、
労働とは基本的にやりたくないもの、罪、避けるべきものという考え方があり、

極力、暇=スコレー(スコラ哲学)な時間を持つことが人間らしいあり方だと考えました

その中でだんだん暇になってきた人たちが
学問や勉強や体を動かす中で、

ソフィストという職業教師、人にものを教えることにより金をもらうという職業が登場してきました
それがソフィストです

ソフィストで有名なのはプロタゴラスで、
プラトンの作品の作品名にもなっている人です

プロタゴラスは、

「人間は万物の尺度である」

といい、

相対主義と言われます

同じ人間でも、違うところでは、地域によっては真理は違う、というようなことを言いました

ゴルギアスやヒッピアスといった有名なソフィストは、今で言うコメンテイター、かなり影響力のある文化人としてでてきました

そこで同時にソフィストと目されてでてきたのがソクラテスです

彼は、ソフィア=知という意味で、知者と呼ばれる知識人のソフィストに喧嘩を仕掛け、

「勇気とは何か」

「正義とは何か」

といったような普遍的な定義が難しい、答えようのないことで問いつめました

ソフィストは基本的に個別的な事柄しか答えられないので、

「人にものをちゃんと返す」

などしかいえません

それに対してソクラテスは

「普遍的じゃない」

「すごく危ない人に重火器を借りていて、それを返すのは正義なのか」

など普遍的な定義が難しい質問をし、

個別的な答えに対して反論しました

知識人たちはタジタジになり、若者は熱狂し、

「新しいソフィストだ!」

となりました

そしてソクラテスは有名人になりました

その後、ソクラテスはいろいろあって死刑になりますが、

弟子のプラトンはソフィストと哲学者は違うといい、

「ソクラテスは哲学者だか、ソフィストは知者だ」

としっかり区別しました

プラトンの考えに乗っかって今の哲学は流れています

その弟子のプラトンはイデア論を言いました

基本的に、観念は現象世界、3次元は仮のもので虚無であり、本質的ではないが、

本質的なものは、イデア界という2次元世界があるとしました

イデア界にあるものを根拠に社会が存在し、
現実と観念を分け、観念こそが本当だといいました

このようにしてソフィストと哲学者、現実と観念、
という世界観をしっかり分けて西洋哲学史の根本的なものの考え方が規定されました

アリストテレスはプラトンの弟子ですが、とても反対し、
現実と観念の存在は認めるが、現実の方に本質はあると話しました

また政治学や倫理学などで正義を細かく規定しようとしました

例えば正義のあり方というのを、

プラトンは、観念的に、魂の中に正義はあり、理性的なあり方をしている時にふわっと正義というのが現れる、という観念的な話をしました

それに対してアリストテレスは現実社会における正義とは富の配分や公平性の原理など、
きちんと現実社会として機能するような話をしました

プラトンは内面的な正義、個人の中の正義を重要視しましたが、
アリストテレスは社会的な、大きな全体としての組織的な正義を大事にしました

これにより西洋哲学の歴史は決まっていきます

そのあとポリスが崩壊して、ヘレニズム時代に入ります

そこででてきたのがストア派、エピクロス派、懐疑主義という哲学の連中です

ヘレニズム時代は
ポリスが崩壊し、みんな心の不安がささやかれる時代で、
自分は心の平安を得るためにどうするかということで哲学が役に立ちました

今で言う自己啓発やお金を稼ぐ方法のような実用書が心の平安のために使われますが、

それがヘレニズム時代では、
哲学が実用書として読まれました

基本的にはストア派もエピクロス派も懐疑主義も欲望をコントロールすると言う点では同じです

それをどうコントロールするかという話です

エピクロス派はわかりやすくて

「苦痛を回避すること」

が根本的な原理で

悪名高いのですが、快の原理は胃袋である、という、

「お腹空いた」

「食べれば満足」

というような、
人間の快楽というのを唯物的におとしこんだのがエピクロスで、ある意味ではえらいです

一方、ストア派は苦痛の回避ではなく、
自分にとって善であることをきちんとやるというのが心の平安につながり、
それによって全く心を動かされない状態、動かされても自分の心を観察できている状態を良しとしました

なのでエピクロス派は苦痛の回避、めんどくさいことはやらないほうがいいといいました

しかしストア派は、ローマ時代、セネカやマルクス・アウレリウスなどは政治家だったり教師だったりしたので、
めんどくさいことや義務から逃れられませんでした

今、働いている状態とおなじですね
どうしても働かなきゃいけないわけです
嫌な思いもいっぱいしないといけない

その中で、なんとか自分の心をうまく自分の感情に流されないようにする方法、心のトレーニングみたいなものをストア派は重視しました

懐疑主義はある意味進歩的で、確定的なものは何もないというような考えです

例えば、ストア派やエピクロス派は快楽とか苦痛とかはちゃんとある、実態としてでなく、経験としてちゃんと感じているとしました

心理学やカウンセリングでも

「そんなの大したことないよとか言ったらダメ」

とか、ありますよね

苦痛というのは存在していると考えるのが心理学や臨床心理学です

相手が苦しいといっていたらそれは絶対苦しいものだというふうに考えるのが
心理学やストア派、エピクロス派です

それが真であるか偽であるか、正しいか正しくないか、その苦痛が正当なものかそうでないかというのはストア派やエピクロス派はちゃんと分けます

しかし、懐疑主義はその苦痛自体がほんとうは存在しないんだという話をします

それは認識として確かなものは何もないので、逆にそこで心の平安を得るという感じです
(諸行無常といったら少し安っぽいのですが…)

この3派、ストア派、エピクロス派、懐疑主義という3つの流れがヘレニズム時代に起こった思想です

このヘレニズム時代は意外と近代、現代まで残っていきました

なので近世初期のデカルトの時代や、もう少し遡ったモンテーニュやパスカル、カントくらいに至るまで、みんなヘレニズム思想をすごく読んでるという形跡があります

なので、ヘレニズム思想は哲学史のページを開くと結構小さくまとまっていますが、
結構重要な、実際に読まれたという点では本当にプラトンやアリストテレスに劣らないくらい重要な思想です

次はキリスト教の台頭の時代に移ります

アウグスティヌスなどがでてきます

ローマ時代になり、キリスト教が出てきて皇帝によって公的に認められると、

その後、キリスト教の教義を正当化するために、キリスト教と哲学をちゃんとつなげようと言う動きが出てきます

それが教父哲学と呼ばれます

中世哲学の始まりです

なぜかというと、

キリスト教を認めさせようにも、

最初はその弟子たちによる神秘体験とかあったのかもしれないですが、原始キリスト教というのは理解されないわけです

しかし、その教義を整理していこうという話がもちろん出てきます

そこで、ある意味教団を大きくするためにはいろいろな人の理解や他者の協力、正当化する必要があります

ここで哲学を利用したというのが、
(利用したというと言い方が悪いですけど)
流れになります

ギリシャ哲学とユダヤ教・キリスト教の教えと言うのは対立するものではなく、
繋がっていて、

みんなギリシャ哲学自体はちゃんと敬意を払っていました

そこで、

「ユダヤ教もキリスト教もギリシャ哲学と接続しているし、矛盾していないんだよ」

という主張をすることにより、理解を求めるという形をとりました

あとはフィロンというギリシャ哲学畑の古代哲学者がいたのですが、
ユダヤ教との教義を接続しようとしたというのがフィロンです

そのような流れの中でキリスト教が出てきて、教父哲学がでてきました

その時代の最大の哲学者といわれるのが、アウグスティヌスです

この人はマニ教というのに若い頃に入っていて、
(マニ教というのは善悪二元論で、これは中東の方のゾロアスター教というのを起源とする相当な世界宗教だったみたいなんですね
おそらくキリスト教レベルにすごい世界観を持っている宗教です)

そこにアウグスティヌスは

「これはすごい宗教だ」

とのめり込んでいたのですが、ある段階でちょっと違うなと思い、
お母さんが入っていたキリスト教に戻っていくという感じです

アウグスティヌスはマニ教に対して、

「マニ教は間違っていてキリスト教は正しい」

のようなモチベーションを持ち、

その中でギリシャ哲学、特にプロティノスやプラトンをキリスト教の教義と結びつけていくということをしました

アウグスティヌスは「告白」と「神の国」というのが主著と言われていています

「告白」ではマニ教との対立、アウグスティヌスのモチベーション的なところが書かれています

「神の国」というのは簡単に言うと、

世には神の国というのがあり、地上は地の国だった
その神の国というものを地上において実現させるために…

のようないわばユートピア理想国家論みたいな話に少し近いです

それで、アウグスティヌスは自由意志というものをかなり主題にしました
罪の発生源というのは意志だ、自由意志だというのをバチっと言ったのがアウグスティヌスです

中世哲学は千年くらいの歴史はあるのですが、飛ばされることが多いです

この時代は基本的にはキリスト教の教義を哲学として、哲学的な問題とキリスト教の教義をいかに中和、両立するかということに心を砕いた時代でした

末期になるにつれて、

「だんだんきついんじゃないか」

という流れが出だし、
最終的に信仰と理性というのはどうしても全部は全部接続はできないとなりました

信仰というのはどうしても理性じゃ説明できない部分があるからです

それで、説明できない部分があるんだ、というのをちゃんと公的に認めようというのが中世哲学の終わりぐらいの基本的な考え方です

途中までは基本的にプラトンとプロティヌスの哲学とキリスト教というのをやっていたのですが、
真ん中ぐらいで

「きついな」

「やること無くなってきた」

となり、そこでちょうど ローマ時代以降失われていたアリストテレスの哲学が逆輸入の形で入ってきます

それにより、

「おおすごい」

「アリストテレスの教えを使えばもうちょいキリストいけるぞ」

のようになりました

例えると、

「プラトンとキリスト教という職業の熟練度上がり切っちゃった」

「もうこれ以上やることないわ」

となり、

「もうそなたは十分に強い」

といわれ、レベルマックスになってしまった時にアリストテレスが入ってきて、

「じゃあアリストテレス、ダーマ神殿で転職してまた1からやろう」

みたいな形になったのが中世の1000年間やっていくわけです

それでトマスアキナスやウィリアムウォッカムというイギリスの哲学者がでてきて、
ちゃんと信仰と理性を分けるというような話をしました

これでとりあえず中世は終わりという感じです

そして、近世になってでてきたのが科学です

科学で有名なのは天動説や地動説みたいな話ですが、
コペルニクスやケプラー、ガリレオガリレイみたいな人たちがでてきて、
科学革命的なものが起こります

そこで、哲学的な認識とか存在を科学的に信仰や、形而上学的なことは置いておいて、
科学によって世界を説明するのような、
経験的にできるもの、
3次元のものだけで説明できるようにならないかと考え出したのが近世です

そこで1番最初に現れた偉い人がフランシスベーコンというイギリスの哲学者です
この人が基本的に信仰とと認識を完全に分けようと話をした人です

近代では大陸合理論とイギリス経験論という主に2つの潮流にわかれるのですが、
経験論の祖と言われるのがフランシスベーコンです

経験論とは物事を3次元の中だけで説明するという、
どこかでプラトンのイデア的な、
2次元的なサポートによって認識できるみたいなのは一切なしのような、
女の子が祈ればすごい力が出るみたいなのは無し、
というようなことを経験論はいいます

漫画でいうと劇画は経験論で少年漫画が合理論です

「オラに元気を分けてくれ」

といえばすごい力出るとか、

女の子が究極に追い詰められると変身するみたいなのはない、ということです
これが経験論です

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