【100円】プラトン『国家』第6巻の要約

哲学する高等遊民です。大学院ではギリシア哲学を主に研究していました。

プラトン『国家』は、史上最大の哲学者プラトンの主著と言われる著作です

非常に重要な作品なのですが、少々長いし難しい。(岩波文庫で上下巻。900頁ほどです)

このnoteでは、『国家』の内容をおよそ10分の1に縮めて、議論だけ丁寧に追っています

こちらのnoteを読めば、『国家』第6巻の議論の内容は9割ほどはカバーできます

全10冊になりますので、マガジンでまとめ買いされることをおすすめします


第1巻の無料部分で、

・『国家』はどんな作品か?
・『国家』を読む意義

などを簡単に説明してます

全10巻あるうちの、第6巻の要約です。私の要約の手間賃として、100円を頂ければ幸いです。

プラトン『国家』の購入を検討される方はこちらからどうぞ↓

プラトン『国家』第6巻 要約


哲学者の指導者素質

哲学者とはつねに恒常不変のあり方を保つもの(実相)に触れることのできる人である。それができずに変転する雑多な事物(中間のもの)のなかにさまよう人は哲学者ではなく見物好きの者である(484b)。真実在を認識している哲学者が反対の人より国の指導に適さないことはない。

そこでソクラテスはもう一度哲学者を正確に規定するために、哲学者の持つ自然的素質を吟味する。まず知恵を愛好し(真実在に迫る学問を)学ぶことに熱情をもつこと。加えてその実在の部分ではなく全体を愛すること。真実を愛し虚偽を憎むこと。知を求める強い気持ちにより世俗的快楽に興味を持たない節度ある人間であること。けちな根性を持たぬこと。死を恐れず臆病でないこと。知識を保持する記憶力の良いこと。粗野でなく、度を守り優雅であること。これらは真実在に与る魂にとって必要不可欠であり、哲学がこのような仕事であれば一点の非難の余地も見出せない(487a)。

しかしアデイマントスが口をはさんで言うには、たしかに議論の言葉の上では反論も非難もできない。しかし現実は決してそうではなく事実において目にするところは違う。哲学に生涯を費やした大多数はまったくのろくでなしとは言わないまでも正常な人間からはほど遠い者、役立たずであることは確かである(488d)。

ソクラテスはこの意見を本当のことだと認める。この事態を説明するには比喩を語らねばならないと言う。

優れた人物たる哲学者の国との関係はあまりにひどく、同じような状態に置かれているものが何一つ存在しない。だから比喩を使わねばならないと説明し、船乗りの比喩を語る(488a)。

この比喩では個々の船乗りたちがわれこそは舵取りに相応しいと互いに争っている。そのくせ舵取りの技術を学んだこともなく、学べるものではないとさえ言う。船主の機嫌をとり、船の支配権を奪おうとし、そういうことに関して腕の立つ者を賞賛する。しかしほんとうの舵取りは海のこと、自然のこと、舵取りに関わるすべてのことを注意深く研究せねばならない。

しかしこんな船ではほんものの舵取りは「星を見つめる男」などと呼ばれ役立たずとされるだろう(488a-489a)。同様に哲学をしている最もすぐれた人々でさえ一般大衆にとっては役に立たない人間である。ただしその責めは彼らを役に立てようとしない者たちに問うべき(489b)。

しかし哲学への非難・中傷はこれとは比較にならないほど大きいものがある。その原因は自称哲学者にある。アデイマントスの言う「ろくでなしの哲学者」はほかならぬ自称哲学者たちのことを指し、わずかな優秀な者も役立たずである。これについてソクラテスは真実と認めた(489d)。


堕落の原因

哲学への非難の原因を語り終え、次に語ることは、なぜ多くの哲学者たちがろくでなしにならざるを得ないのかである。その哲学者たちの堕落と逸脱の原因はほかでもない上で褒め称えたものの一つ一つである(491B)。

つまり自然的素質に恵まれた魂が悪い教育を受けると特別に悪くなる。極悪非道は養育によって損なわれた場合の力強い自然的素質からこそ生まれ、弱い素質は善悪いずれにせよ大したことにはならない(491E)。

では悪い教育とはどのようなものか。多くの人々はソフィストの教育が害毒だと考えているが、実際にはそういうことを言う人自身が最大のソフィストである(492AB)。

つまり大衆が国民議会や法廷、劇場などで大騒ぎして賞賛・非難を行う。これは洪水のようなもので、個人的に受けた教育などひとたまりもなく流してしまう。若者は群衆が美しい、醜いと主張するものをそのまま主張するようになり、彼らと同じような人間になってしまう(792cd)。

またこの事実上のソフィストたちが言葉によって説得できないときは法的措置に訴え市民権の剥奪、罰金、死刑などの強制力を行使する。これではどのようなソフィストの教育でも勝つことはできない。

職業としてのソフィストのほうも教えている内容はといえば、大衆のご機嫌取り以外の何者でもなく、それを「知恵」と呼んでいる始末である。大衆の喜ぶものを善、嫌うものを悪と呼び、その規定はそれ以外にまったく根拠を持たない。要するに善悪の本性を吟味せずにただ群集の欲を満たす技術を教え、それを知恵と呼ぶのがソフィストである。

このような教育を受けた人は何でも多数者がほめるとおりのことを為さざるを得ず、世に言う「ディオメデス的強制」である(493D)。けれども多数者のほめることが本当に善い・美しいことなのか、理由付けの議論となると噴飯ものの議論ばかりである。

これらを鑑みた上で、大衆が美しい事物ではない<美>そのものの存在を、またそれぞれ多くの事物ならぬもの自体の存在を容認したり信じたりすることがありうるだろうか。とうてい無理である。大衆は哲学者たりえず、哲学している人々が大衆から非難されることも避けられない。また職業的ソフィストからも同じ態度をとられる。

このような社会の状況で数々の自然的素質を持って生まれた子供はどうなるだろうか。これほどの素質の持ち主なら早くから天分を発揮し、大人たちは彼が育ったら重用しようと考え、若いうちからへつらいご機嫌を取り出すだろう。さだめし彼は知性に欠いたまま(本当に哲学を学ばないまま)自尊心に満たされ、思い上がって高慢な人間になってしまうだろう。素質に優れていてもまわり(大衆)が悪いとまさに素質ゆえに堕落してしまう(494d)。

そしてこの状況を忠告してやる人がいたとしても、その言葉に耳を傾けるのは容易ではない。なぜなら彼に必要なのは大衆のへつらいによる思い上がりではなく、知性にもとづいた洞察であるが、その獲得には召使のようにすべてを捧げて努力せねばならない。またその自然的素質ゆえにその忠告の言葉に感応し、哲学を学ぼうとしたら彼の周囲の連中はあらゆる手段を尽くして彼を引き止めるだろう。そのためには忠告者を法廷に突き出したり陰謀も辞さない(494e)。

このように哲学的素質の条件となる様々の徳性そのものが、養育の環境が悪いと、ある意味でその仕事から脱落する原因となる。恵まれた外的条件も同様(495a)。このようにして哲学をする最も相応しい人たちが脱落し、他方素質のない不似合いな連中が哲学をかじり、アデイマントスの言うような汚名を哲学に着せることになった(495c)。

そんな彼らが哲学から生み出すものは<にせ知識><詭弁>と呼ばれてしかるべきものになる(496a)。このような社会では本当の素質を持ち、また運よく大衆の洪水から逃れたごく少数の人たちは、静かにひっそりと生きるだろう。それだけでも小さくないことを成し遂げているが、しかしそれだけでは彼は最大のことを成し遂げたとは言えない。

彼の住む国家のあり方が彼の素質と適合したであれば、彼自身ももっと成長し、個人とともに公共をも救済することができる(497a)。

以上で哲学への非難中傷は正当ではないことが証明される。

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