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わたしが芝居を純粋に楽しめるわけがなかった

クジラの歌」という舞台を観劇してきた。360度(180度という記載も見かけたけれど、あれは360度の舞台だったと思っている)の舞台の使い方だとか、芝居調になりがちなところを崩す安達さんのラフさと演劇調を魅せる役者陣のバランスだとか、ヒロインの圧倒的ヒロイン感だとか、作品自体にもいろいろと思うところはあれど、今回書くのは観劇を経ての今の心内。クジラの歌の感想はTwitterでハッシュタグでも検索してくだされ。わたしも別途何か書くかもしれない。


わたしは芝居が好きだ。舞台が好きだし、映画やドラマやアニメなんかも好きだ。体を使って芝居をすることも、それをみたりきいたりすることも好きだ。演技を観て、聴いて、鳥肌がたつ。臓器の奥が痙攣するみたいに、呼吸には震えが走る。いい芝居を見ると、聴くと、たまらなく心が引き攣れて、泣き出したくなる。いつも。ずっとそうだった。

けれど、特別演劇論に詳しいわけでもなければ映画オタクというわけでもない。詳しいか詳しくないかで言われれば多分詳しくない部類なんじゃないかと思う。高校時代に演劇部と軽音楽部でステージに立っていたこともあるし、中学時代は根暗が高じて一人でラジオドラマをつくって遊んだりもしていた。でも、自分がどうして芝居が好きなのかはずっとわからなかった。
スポットライトの光とあの緊張と喝采は確かに忘れがたい。気持ちがいいし、命を削って生きているという感覚が在る。でも、それだけじゃない気がしていた。舞台以外の芝居も好きだったというのもあるけれど、どんな媒体でも「芝居」を見るとき、わたしは純粋に役者の演技だけを観ているわけじゃないと、気がついていた。

感動と嫉妬はいつも一緒にやってきた

わたしは良い芝居を見るときに、その芝居の空間そのものと、その世界自体をたまらなく羨ましいと思っている。感動しながら、強烈に嫉妬している。名前を持ち、動き、話し、その世界で息づく人たちの存在が、その世界が構築されて形になっていることが、心底羨ましくて悔しくなる。わたしもその世界がほしい。わたしの中にあるちいさなちいさな温度のない国に、誰かの息遣いをきかせてほしい。鼓動を貸してほしい。暴れて笑って泣いて、ここに、ここで、生命にしてほしい、と思っている。本物になる瞬間を、実体を持つ瞬間を、観たいと思っている。

創作をしたことのある人はみんなわかると思う。自分の生み出したものたちの息遣いや鼓動や体温を、誰かに触れて形にしてもらえたらという願いは切実で、多分祈りにも近い願いごとだ。まるで何かのおまじないみたいな。流れ星に祈るみたいなそれに近いかもしれない。
芝居にするということだけじゃなくて、単に作品への感想だとか何かしらの反応で、誰かの心に触れたとわかるということがそれにあたるんだと思う。

芝居を観るとき、多分わたしはどんなに感動して泣いていても、その物語を創った書き手のことを透かし見ている。いい芝居であればあるほど、物語がこんなにも温度を持って生きていることを羨ましく思う。社会的評価がどうとかじゃない。深く心を打つ瞬間を間近に見て、己の心でそれを感じて、心底羨ましい、と思っている。役者、衣装、音響、照明、演出、舞台装置、小道具と、たくさんの関係者の手で育てられた作品を心底羨ましいと思っている。

嫉妬はみっともなくて醜い感情だと教えられてきた。そんなものは恥ずかしいし愚かなものだから隠しなさい、嫉妬を抱くのは恥だと知りなさいと教えられて生きてきた。

でも、ただ、羨ましい。

わたしは何が欲しいんだろう。賞賛じゃない。栄光でもない。わたしは多分、本当に切実に生きる誰かの、もがくような中でのたった一粒の涙がほしかった。ここまで生きてきてよかったと思えるような、そんな一点の交わりの瞬間がほしかった。

娯楽は悪か。芝居は無価値か。

娯楽に与えられるものなど何もない、悪だからそんなものに触れるのはよしなさいと教えられてきた。だけど、昨日身を置いていたあの空間ですすり泣く音を聞き、笑う人たちの声を聞き、舞台に立つ人生の慟哭を聞いて、わたしは確かに、与えられたのだ。
ある種のシェルターじみたあの空間で、誰とも言葉を交わさずに静かに泣くことが、果たして本当に無益だろうか。心打つ非現実に身を置いて、生身の人間が創る世界に希望を見出すのは罪だろうか。無意味だろうか。

芝居は「だますための作り事」という意味もある言葉だそうだ。現実逃避、時間の無駄、浪費、何も残らない、無価値、社会の役に立たない。
そうだろうか、なんて議論には、きっと大した価値はない。そんなことはどうだっていい。誰かの正義の証明にこそ、一体何の意味があるというんだろう。事実がここにあるだけでいい、ということも、きっとたくさんある。

芝居を書こうと思った。世界を創ろうと思った。声に出して読もうと思った。誰かに声が届くまで届けようと思った。そんな純粋で弱々しい衝動が、尽きてしまう前に、ここに、遺しておきたかった。

誰のものかわからない人生だから、わかりたいんだと思う。

わたしは芝居が好きだ。理由も言い訳もない。

歌も演技も、舞台に立つ時は眩いライトが喉を絞めるようだった。歌は苦い記憶の方が多い。演技は不甲斐ない自分を感じたことの方が多い。プレッシャーに負けて一人泣いた日がいくつもあって、それでも縋りつきたいほど、舞台という場所は自分の小さな居場所だった。苦しくて、溺れて、沈んでしまえるような、そんな居場所だった。

台詞を唱えながらバスを待つ夜は、あの頃の自分を少しずつ救っていた。けれど苦しくて、苦しくて、孤独の摩擦と擦過傷の連続の世界に耐えきれなくて、階段をおりて左へ進む人生をやめてしまった。わたしの居場所は右だった。たとえ誰にも声が届かなくても。

芝居を見て思い出した。わたしの人生に崇高な理由なんて存在しない。理性的な意味だってぜんぶ正当化するための後付けで、けれどその後付けだって確かなわたしの人生で、ぜんぶが正しく平等に現実で、だけどそれらがどうなっても人生には届かず、響かず、ゆらゆらと揺れているだけのものだ。誰の命を生きているのかを、わたしはいまだによくわかっていなくて、だからこそ、わかりたいと、伝えたいと、どこかでずっと切実に願い続けているんだと思う。

だから、わたしは世界を共有したい。こえられない境界線に触れて、けれどその薄膜をどうにか交そうと試みたいんだ。


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