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きみとぼくの親愛なるきみへ

 あれは確か、夏がもうすぐそこまで迫っている中途半端に強い光の溢れる頃だった。まだ高校生だった僕らが、退屈な授業と毎日の部活動と、たまに現れるいざこざや恋なんかに一喜一憂して、同じ格好に身を包みながら同じリズムを繰り返している頃。君はいつも窓辺の席で、黄色いスニーカーを履いた足を緩く伸ばしてはぼんやりと外を見ていた。地味な制服には不釣り合いに鮮やかな黄色。少し癖のある髪が風に揺れて、眠そうな横顔を撫でていく。いつか君の長い睫毛を指摘したとき、君は心底嫌そうな顔をして、目を逸らした。
「おはよう」
 そんな挨拶をすることに意味なんて無かった。けれど僕らは毎日、顔を合わせる度にそう挨拶をした。君はちらりとこちらを見て「あぁ」と短い挨拶をするから、それを耳に入れながら机にリュックを置いて、君の座る席の前に、どっかりと腰を下ろす。
「おはよう」
 もう一度言って、それでようやく君から「おはよ」と言葉が返ってくる。無駄なこのやりとりの往復は、けれど僕らの日常の一つだった。少しぼんやりした君は何だかいつも眠そうで、けれど他の奴らと違う大人びた雰囲気が僕の憧れでもあった。大抵のことに動じないところとか、気づいたら机に突っ伏して寝ているところとか、偶に腹を抱えて笑うところも、気に入っていた。
 君は絵が上手くて、美術の才能があった。将来は美大に行きたいとぼんやり考えていると言って、時折放課後の美術室にも足を運んで絵を描いているようだった。部員ではないと言っていたけれど、美術部の顧問にも歓迎はされているようだったし、文化祭だって美術部の展示の中に君の作品があったことを僕は知っている。何かに属するのが苦手だと言っていたから、わざと部員ではないという風に言っているのかもしれない。僕は絵の出来不出来なんてよくわからないけれど、それでも君の描く絵にはドキリとした。上手いとか下手とかではなくて、圧倒された。文化祭の展示なんて興味も無かったけれど、君の作品は美術室の中のどの作品よりもすごいと思った。すごいと思って君に感想を伝えたら、またすごく嫌そうな顔をされたけれど。来年も出せよって肩を叩いたら、君は曖昧な表情でうんとかううんとか言ったんだった。君はすごいのに、君の才能に自信は無いようだった。
 教室の白いカーテンがゆらゆら揺れている。大きな窓から注ぐ光は透明で、白いカッターシャツによく跳ねた。眩しいなと目を細めて、換気のために開けてあった窓を閉める。狭いベランダに黄色が見えた。階下の花壇から、女子の声にならない叫び声がする。

 "転落事故"は、君の視力と右腕の自由を奪った。自殺未遂だったんじゃないか、いじめがあったんじゃないか、そんな声に溢れた学校に君は来なくなって、何度もかけた電話はついに着信拒否をされてしまった。メッセージはいくらだって送れるけれど、君はそれを読むことができない。意味がないって思いながら、それでも僕は何通も何通もメッセージを送った。「おはよう」から、「また明日」まで。学校で君と交わしていた挨拶みたいなことを何通も、何日も。
 君が居なくなってからも、僕は変わらず学校に通った。冬になれば彼女もできたし、学年が変わって受験が始まろうとする頃にはもう、君にメッセージを送ることも忘れるようになっていた。風の噂で、君がこの学校を去ったということも聞いていた。多分もう二度と会うことはないんだろうと、そう思った。
 所属していたバスケ部の引退試合も終えて、いよいよ受験勉強に励む毎日が始まる。早くに部活を引退した奴らとか、帰宅部の奴らとか、ライバルたちとの差を縮めるためにも朝早く登校して自習をするようになった。放課後は放課後で、部活をしていた時間を丸々自習にあてる。自習室は普段の教室とは別に用意されていて、いつもは使わない広い教室はまさに受験戦線の真っ只中という感じがして気が引き締まった。
 彼女と一緒に、教室より下の階にあるそこへ足を向ける放課後。途中でふと美術室の灯りが目に入った。今日は確か職員会議で、部活は全部休みだったはずだ。
「ねぇ、美術部今日活動してんの?」
「え? あれー、何でだろ」
 数段先の階段にいる彼女に尋ねれば、たんたんと軽やかに階段を上り直して彼女が首を傾げる。
「リエ、今日は部活できないって言ってたけどなぁ。……あ、もしかしたらあれじゃない? 美大受験の子たちが練習してるんだよ、デッサンとか」
 美大受験。それは何だか懐かしい単語のような気がして、少しだけ息が詰まる。「どうしたの?」と首を傾げる彼女に曖昧に返事をして、動機なんてわからないまま、「先に行ってて」と彼女を促した。後ろで何か言う声が聞こえたけれど、無視して歩き出す。
 普段行く機会もない美術室のドアの前に立って、ひとつ小さく息を吐いた。自分の足元を見れば、見慣れた白と黒のスニーカーが目に入る。中から灯りは漏れているけれど、動く影や話し声はなく人がいるのかどうかは分からない。完全部外者である僕がどうやってこの扉を開けばいいのだろうと、唐突に不安になった。特に用事がある訳でもないし、やっぱりこのまま引き返して自習室に向かおうか。今ならまだ彼女も階段を降りている途中だろう。
 もしもこのドアを開けるなら、失礼しますとか、そういう挨拶が無難かもしれない。そんなことを考えながら、気づけば僕は、ドアに手をかけていた。思考と体が淡く乖離しているような、そんな気がする。
「失礼します」
 ドアを開けた先、入り口からまっすぐ正面の窓辺に、見たことのある絵があった。また巡ってきた、僕らにとって三度目で最後のこの季節の太陽光を浴びて、重ねられた絵の具がぬらりと光る。
「……なんで」
 どうして君の絵がここにあるんだろう。
 美術部なのか受験生なのか分からない生徒が数名、訝しげに僕を見ている。
「あの、先生なら今いませんけど」
 一人の女子が遠慮がちに声をかけてきて、それに「あぁ」と曖昧な返事を返す。違うんだ、と。説明したくて、けれど上手くできそうにない。
「……あの絵って、確か一昨年の文化祭にあった」
「? あぁ、はい。多分そうだと思います。わたし二年なんですけど、先輩とか先生が言ってた気がする」
 ねぇ、そうだよね?と女子が別の部員に尋ねている。そのやりとりを追うこともせず僕は、ただ君の描いた絵を見つめていた。
「……あの絵って上手いの?」
「うーん……上手いんじゃないですか。好みは分かれそうですけど」
 知らない人の、知らない絵。それに対するその素朴な答えはショックだった。多分、この子は本当は上手いとは思っていないんだと何となく分かったから。それが正当な評価なのかどうかも僕にはわからなかったけれど、だからこそ、聞いてしまったことがショックだった。
 僕は、すごいと思ったんだ。
 君がこんな絵を描くんだってこと、すごく驚いたし、尊敬したんだよ。
 君ならきっと、いつもみたいに眠そうな顔をして、それでもすごい作品を作り上げて、行きたいと言っていた美大にも合格して、すごい奴になっていくんだと、そう思っていた。久しぶりに思い出して、途端に悔しさが溢れ出す。
 どうして君は、あのベランダから落ちてしまったの。
 いつも窓辺で外を眺めていた君は、一体何を考えていたの。
 どうして一度も電話に出てくれなかったの。どうして家に行っても会ってくれなかったの。
 僕は君のことを何も知らなかった。
 君の作品が何を描いたものなのかも、結局僕は知らないままだ。
「なんか、先輩に聞いたんですけど、あの絵描いたのって"落ちた"人なんですよ。何であんな絵置いとくんだろって思ってたけど、捨てれないですよね」
 浅いため息を吐く女子の黒髪が束になって揺れた。何でって、それはさ。そう言おうとして、けれど僕は何も言えない。適当なことを言い残して、僕は絵やその言葉から逃げるように美術室を出た。黄色いスニーカーが頭に浮かぶ。あれはきっと君の意思によるものだったと、そんな気がした。
 悔しくて情けなくて苛立たしくて、僕は自習室には行かないまま校舎を抜けた。
 君の絵も守れなくてごめん。僕には何もできなかった。
 そんなことさえ、今の僕に言う資格はない。僕は君にとっての、何者にもなれなかったのだから。

 その日はそのまま走って帰った。君と何度も歩いていた道を、息切れして千切れそうになる心臓を抱えたまま、短い信号待ちの度に足止めをくらいながら、不恰好に走って帰った。背負った鞄が邪魔で、思ったように走れなかった。それでも多分、君を置いて家につくことくらいは簡単にできたように思う。きっと僕は、そうやって君を過去にする。
 君はどこに行ったんだろう。あの時、君は何を見つけていたんだろう。
 その瞳が最後に見たものは、一体どんな色をしていたの。

 僕は無事に大学生になった。一人暮らしを始めて、彼女とは自然に疎遠になって別れてしまった。一度だけ顔を合わせた時、大学生になった彼女は急に大人びて、僕の知らない女の子になったみたいに見えた。付き合いの延長みたいな約束で久しぶりに会う同級生たちも、皆急に大人びて垢抜けていく。僕も大学に入って数ヶ月で髪を染めた。染める時はドキドキしていたけれど、染めた後の髪を何度も眺めているうちに思ったよりも色が変わらなかったなと思うようになった。
 サークルに入って、好きな人ができて、失恋して。高校生の頃とあまり変わらず、僕らはやっぱり退屈な授業とサークル活動と、たまに現れるいざこざや恋なんかに一喜一憂をする。そこに君がいないというだけで、それ以外の僕の日常は何も変わらずに続いていた。アルバイトも始めて、欲しいものも自分の給料で少しずつ買うことができるようになって。飲み会とか、コンパとか、そういうこれまでには無かった遊び方も少しずつ増えてきた。こういうことを繰り返して、僕らは大人というものになっていくんだろうか。そうだとすれば、僕があの頃想像していたような大人になるのは何だかとても難しいことのようにも思えた。まるで自然発生的ではなく、もしかすると相当な努力をしなければ大人にはなれないんじゃないかと、そんな予感がした。
 退屈な授業を聞いて、数枚のプリントと出席カードを提出すれば一日の半分が終わる。バイトまでの空きコマの時間。暇つぶしにラウンジに向かっていた僕のポケットでスマホがメッセージの受信を告げる。『昼飯食おうぜ』という誘いにオッケーと返しながら、もう一通メッセージの通知があることに気がついた。あまりよく確認せずにそのポップアップを開いたら、そこには見覚えのある、君の名前が滑らかに並んでいた。

『親愛なるきみへ ありがとう』

 そのメッセージにも、差出人の名前にも驚いた。どういうこと?と首を傾げるより先に、笑っているのか泣いているのかよくわからないような震えた吐息が唇から落ちた。泣き出しそうな震えは、自分でどうにかできるような類のものではなかった。
 口角が上がっているのが自分でもわかる。口元に手をやってそれを隠して、もう一度ちゃんと、画面に並ぶ文字を目でなぞった。
 どうやってこれを送ってきたのだろう。
 今どこで何をしているのだろう。
 君はどんな気持ちで、何を伝えたくて、これだけを送ってきたのだろう。
 僕にはいくら考えたってわからないから、使い慣れたスマホの画面に指を置く。

しん|

しんあい|

親愛|

親愛なる|

親愛なるきみへ|

親愛なるきみへ

親愛なるきみへ
あいたい|

親愛なるきみへ
会いたい

 ひどくシンプルな言葉の羅列を暫く見つめて、そのまま送信を押した。残像も残らないスマートフォンの画面を見つめていたかったけれど、画面を閉じればそれを潔くポケットに入れた。信憑性のないジンクスみたいに、さっきのシチュエーションを再現した方が君からの返事が来るんじゃないかと、そんな気がして。

きみとぼくの、親愛なるきみへ。
おはよう。もうすぐ、季節が巡ってくるよ。


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2016年に書いていた下書きより、「君と僕の親愛なるきみへ」。
高階 經啓さんのSFPエッセイという企画にお題を応募して虚構エッセイを書いていただいたのですが、わたしも同題で物語を書いてみたくなって書いたものだったと思います。

▼高階さんの書かれたエッセイはこちら
【きみとぼくの親愛なるきみへ】

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