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重箱の隅をつつくがごとく

こちらのツイートの通り、セリフは削ることでよくなる場合があります。
かといって、闇雲に削ればいいかといえばそういうものでもなく、
・話し言葉として自然なのかどうか
・会話している者同士の関係性や状況にふさわしいものであるかどうか
・視聴者に伝えるべき情報がきちんと入っているか
・視聴者にその段階では伝えるべきではない情報が入ってしまっていないか
等々、さまざまな観点から「あり/なし」を判断しなくてはなりません。

テレビドラマも映画も、脚本打ち合わせ(略して「本打ち」)の中で、セリフの一つ一つに至るまで、こう言った観点から見直しをします。

私の師匠は芦沢俊郎という人で、師匠に初めて自作を読んでもらったとき、あるシーンのセリフについて、こんなことを言われました。
「この、『先週来たときは、調子いいって言ってたのに……』っていうセリフだけど、『調子いいって言ってたのに……』だけで十分だね」
このシーンは、ある家族が、入院中の母の急変を知って病院に集まってくるという場面でした。
その中で私は、ある登場人物に、
「先週来たときは、調子いいって言ってたのに……」
というセリフを言わせていたのですが、
「調子いいって言ってたのに……」
で十分だと直されたわけです。

ああ、プロの視点とはこういうものなのか!と、目から鱗が落ちる思いがしたのを今でもよく覚えています。
私は「この登場人物は、毎週お見舞いに来ているんですよ」と視聴者に伝えておこうという思いから、「先週来たときは」と書いていたんですが、この場面にいる他の登場人物にとっては「毎週お見舞いに来ている」は既知の出来事。
なので、わざわざ口に出して言うのはむしろ不自然。
さらに視聴者にとっても、「毎週お見舞いに来ている」はそれほど重要な情報じゃないので省いていい。
……ということを、瞬時に師匠から指摘されたわけです。

「その程度の違いがそんなに大事?」と思われるかもしれませんが、大事なんですよ、これが!
こういう精査を怠ると、作品の印象が冗長になったり、説明っぽいものになったりしてしまうのです。

その後、初めて私が映像作品の脚本を書いたときのこと。
このときは、
「母に、これまでの償いをさせてもらえないでしょうか」
というセリフに対して、本打ちで、
「母に、これまでの償いをさせて”やって”もらえないでしょうか」の方が自然ではないか?という意見が出ました。
こういう場合も、「どっちでも同じでしょ」で済ませるのは危険。
神は細部に宿ると言いますし、どちらを選ぶかでニュアンスは必ず変わるものなのです。
結局、このセリフは「させてもらえないでしょうか」の方で行くことになりました。
理由は、そちらの方がこのセリフを言っている人物(息子)が、母と自分を一心同体のように感じているという雰囲気が出るから。
自分と母を同一視していれば、自然と「させてもらう」の方になるでしょう、というのが私たちが出した結論でした。

こんな具合に、本打ちでは事細かに見直しをし、脚本家はあらゆる方向からのツッコミに答え、知恵を絞り続けることになります。
だから、消耗の度合いが半端ない。
ただ、本打ちの場で「これだ!」というアイデアにたどり着くことも多いので、しんどい思いをするだけの価値はあるんですけどね。
いや、でもやっぱりしんどいよな……。

#日記 #エッセイ #コラム #エンタメ #脚本 #シナリオ  
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