見出し画像

“夫婦”で成し遂げた功績 倭建命様其の三六 神話は今も生きている ことの葉綴り五六四

生きとし生けるものを尊び祈る放生会

おはようございます。
九月も半ばになりましたね。気温差で体調壊していませんか?
今朝は最初に暦を。
九月十五日、六曜は「仏滅」。十二直は、「(とる)」で執り行う日。万物を裁決する日。祭祀、お祝いごと、種まきに吉。
二十八宿は「(しん)」で、物品の仕入れ、購入、取引のスタート、婚礼、縁談、お祝いごと、旅行に吉。
そして、千里を往き還るという「寅の日」で、金運招来の吉日。旅立ちにも佳き日です。

そして毎年、九月十五日は、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)さんでは、もっとも重要なご神事「勅祭(ちょくさい) 石清水祭」が執り行われます。
勅祭(ちょくさい)」とは、天皇の思し召しにより、天皇の特使である「勅使(ちょくし)」を神社に遣わされて、幣物を捧げられ、天皇の御祭文(さいもん)を奏上する特別な由緒ある祭祀です。
この祭祀は、清和(せいわ)天皇の貞観(じょうがん)五年(863年)、旧暦の八月十五日に、八幡大神さまが、男山の裾を流れる放生川のほとりに魚や鳥を放ち、「生きとしいけるもの」の平安と幸せを祈られたことが始まりです。勅祭として執り行われたのは、天暦二年(948年)からだそうです。

勅祭 石清水祭」は、毎年、男山の麓の「頓宮」で執り行われますが、今年は、山上の本宮で斎行されるそうです。そのため、朝~午後13時までは、山上での一般の参拝は停止となるそうです。

今の時代だからこそ、生きとし生けるすべてのものの平安と幸せを祈る祭祀が、無事に執り行われますように!!
そう祈りたくなりますね。

さて倭建命(やまとたけるのみこと)さまの神話の物語に入ります。

画像1

<ことの葉綴り>ご案内

「ことの葉綴り」全体の神話の物語のご紹介です。
神話は、「神さまも“失敗して成長した”」「“神話は今も生きている”」と、日本の魅力的な神様の物語編。
約二千年前、伊勢の神宮ができるまでの「元伊勢」編。
ときおり綴る「エッセイ」編と、「マガジン」に分かれています。
下記のトップページから、スクロールしていただくと、物語別、神様べつに「マガジン」が選べるようになっております。
神さまの名前や、ご興味あるものを読んでいただけると幸いです。

最新マガジンは、天照大御神さまが伊勢の神宮にお鎮まりになられるまでの「元伊勢」物語 神話13~17です。

画像2


<倭建命様の物語。これまでのあらすじ>

熊曾建兄弟(くまそたける)を討伐した倭建命(やまとたけるのみこと)さまは、父である景行天皇の勅命を受けて東国の荒ぶる神の討伐へ出立されました。
焼津では、倭姫命(やまとひめのみこと)さまから賜った「草薙剱(くさなぎのつるぎ)」と「御袋」の火打石で、窮地を脱します。
走水(はしりみず)から上総国(房総半島)へ御船で出港するも、海神の怒りで、遭難しかけたとき、愛する后の弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)さまが、自ら海の神の“人身御供”となり入水されました。
その後、東の荒ぶる神たちを平定して、各地を回り、大和への帰路へと向かい途中、足柄(神奈川県足柄市)の坂本で、神の使いの白鹿をあやまって殺めてしまうのです……。

何か不吉な感じがしますよね。

画像3

“夫婦”で成し遂げた勅命

そしてその足で、足柄の山の頂に昇った倭建命さま。
そこからは、相模の海が一望できました。
海へと入水した愛する后、弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)。

波光煌めくあの海のどこかに、わが后、わが妻はいるはずだ……。そなたが望んだ勅命を果たしてきたぞ。
これから懐かしい大和へ還るというのに、なぜ、ここにいない……。

これまで我慢していた哀しみが沸き上がってきます。
悲嘆にくれながら、深い嘆きを振り絞るように

ああ、わが妻よ……。

弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)さまを思いかえされていました。

悲しまないで、皇子さま。私は、どんなときも、あなたのお側におります。

困難を極める東征の道のりで、躰も疲弊し、心も悲しみの淵に墜ちていきそうなとき、倭建命(やまとたけるのみこと)さまを救い、前を向かせていたのは、
私が海に入り、海神の祟りを鎮めます。皇子さまは、必ずや勅命を成し遂げて天皇のもとへお還りください
と仰られた弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)さまの遺言と、
 さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
という、最期に歌われた愛と感謝の歌だったのではないでしょうか。

この東征は、倭建命(やまとたけるのみこと)さまと弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)さまの御霊(みたま)と共に、”ご夫婦”で成し遂げられた“功績”なのではないでしょうか。
皆さんは、どう思われますか?

画像5

老人(おきな)の知恵

倭建命(やまとたけるのみこと)さま一行は、次に、甲斐の国(山梨県)へと向かわれ、酒折宮(さかをりのみや)に、到着されました。
その夜のことです。
倭建命(やまとたけるのみこと)さまは、次の歌を詠まれました。

新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

新治(にいばり、常陸の国、茨城県の地名)、そして筑波を過ぎてから、もう幾つの夜、寝たことであろうか……

家臣のもので誰も答えられるものがいませんでした。が、そのとき、灯りをともす、御火燒(みひたき)の老人(おきな)が、皇子の御歌に続けて、次のように歌を詠んだのです。

かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を

二日、三日と並べて数えてみると、夜では九夜(ここのよ)、そして昼では十日になります。

倭建命(やまとたけるのみこと)さまは、この御火燒(みひたき)の老人(おきな)の賢きことを、お褒めになり、褒章を与えられました。
それは、東(あづま)の国造(くにのみやつこ)の地位をお与えになったのでした。

画像5

―次回へ
#一度は行きたいあの場所
#私の作品紹介

この記事が参加している募集

私の作品紹介

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?