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常識に縛られてはいないか。

「彼氏いるの?」「彼女いるの?」

場つなぎの世間話レベルでさえ発動される質問。
そもそも人の恋愛事情を踏み込まれることを苦手に思う人もいると思いますが、また別の意味で、私は苦手です。

きっかけは大学で受けたジェンダー理論の講義でした。
講師の方は、講義の冒頭で「自分はゲイです」と自己紹介されました。そして、冒頭に記した何気ない質問に苦い思いをしてきたと言いました。

自分は異分子だと突きつけられるようだった、と。


「同性を愛して人生を歩む選択を想定しない世界」
それが私が生きる世界だと言うことに、立っていた地面が崩れるような気持ちになりました。しかも、否定も攻撃の意思も全くないのに、誰かの心を傷つけている可能性の示唆。
私も誰かに苦い思いをさせてきた一人だったかもしれないということに。

トイレには男性用と女性用しかないこと
書類の性別の選択肢は二択であること
同性婚が国に認められていないこと


講義室の片隅で、当たり前に存在する社会の「常識」が揺さぶられたことを思い出します。

同時に、心と身体と嗜好と、他にも様々な要因で作り出される性の多様性の美しさに、私の頭はクラクラしました。まさにレインボーな世界がそこに広がっていたのです。


「嗚呼、人間の生き方の、なんと自由なことよ」

ゆっくりではありますが、世界は少しずつ変わってきている、そう思いたいです。
難しそう、とか、自分とは違う、とか、理解しなくちゃいけない、とか、私は理解していますよ安心してください、とか無理をする前に、日常の感覚をみんなで整えていけると良いなって思います。

昔のバイト先での出来事です。
オープンなゲイの常連さんがいらっしゃいました。
明るく、素敵な方でした。
それでも、男性社員に「あの人ゲイだからさ、代わりにデリバリー行ってきてよ」と仕事を振られた時の衝撃。「じゃあ、ヘテロ(異性愛者)のお客様のデリバリーは行ってくださるんですよね」と喉元まで出かかりました。言ってやれば良かったと未だに後悔します。
日常的に存在する小さな感覚や認識のズレ。そういったものと向き合っていかなきゃいけないなって、思った出来事でした。

無意識に男女の二つの選択肢に縛られた思考はしていないか。
なんとなく世間的な正解を意識して発言をしていないか。
今ある「常識」に惑わされていないか。

「常識」は更新されていくものだと思うから。

今私の立場は、「心と身体の性自認が等しい異性愛者」にあるわけですが、これからどうなるかなんて誰にも分からないわけで。
それにー自分の可能性を決めつけるのもなんだか勿体ない気もするんです。
何があっても、何が起きてもいいじゃないって思うのです。

本当に小さなことだけど、私の眼に映る「常識」は本当に「常識」なのか。

私たちは自由だ。

最後まで読んでくださってありがとうございます。