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30歳の誕生日

30歳の誕生日、父親からLINEが来た。

普段、必要な連絡があっても母親を通して連絡が来るので、父親からLINEが来るのは珍しい。

「誕生日おめでとう」という、当たり障りのない祝福の言葉と共に、一言「今日も長野は寒い。まるで、キミが生まれた日のようです。」と書いてあった。

悲しいのか嬉しいのかなんなのかわからない。
朝の通勤ラッシュでごったがえたした表参道の駅のホームで私は泣いた。
目の前に、父が見たであろう幸福な光景が浮かんだ。寒いけど、まだ雪の降っていない11月の晴れた日曜日。私が生まれたのは夕方だったという。

私が生まれた時、父は「女かぁ、気持ち悪ぃなぁ。」という名言を吐いた。
これは昔から母がよく聞かせてくれた話しで、小さい頃から何度も聞かされた。

父は根っからの女嫌いで、友達も少なく、仕事と趣味と母がいればすべての世界が回るような、孤独を愛する人間だ。
色気のある生き物が苦手なのか、可愛いと思う芸能人を尋ねても、大抵無邪気なブスを選ぶし、幼い頃にゴジラの映画を見て「なんでゴジラ死んじゃったの?」と尋ねたら「銀行がお金を貸してくれなくなったから、ゴジラは死んじゃったんだよ。」と優しく教えてくれた。
私がしょうもなくひねくれている所は、父親譲りだと心底思う。

そんな父だったけど、
生まれたばかりの私にその一言を吐き捨てた後は、たったの一度も私に冷たくする事は無かった。

約束はすべて守ってくれた。どんな些細なお願いごとも、約束したら必ず守ってくれたし、どんなに忙しくても、邪険に扱う事はなかった。
たったの一度もなく、である。

父の最初に言い放った一言は不器用さの現れであり、
言葉とはうらはら、父は私の一番の理解者であり、人生においてすべての味方となってくれた。

そんな父が言う一言は重みがあった。
どうしようもなく幸せになりたいし、ならなければならないと思った。
父が見たような幸福な光景を、わたしもいつか見てみたいと思った。

結婚して、家族を持って、子供を産んで、愛して、愛されて。
父が私に渡してくれたバトンを、私は繋いでいかなければならないと漠然と感じた。願望が使命感に進化して、より一層「結婚」に憧れるようになった。

愛されて生きてきたので、誰かを同じように愛したいし、そうすることで救われるのだ、きっと。

なんとなくその日、私はそんな事を思った。

自分に復讐するみたいに恋愛して、
復讐するみたいに相手に自分を押し付けて、
自分勝手な感情を振り回して、
わがままな女をしていたいと思うこともあった。

最終的にはその人を「もういらない」と突き放すことが幸せだなんて本当は思ってない。わかっている。

20歳を超えてからの私の恋愛は、
誰かにされた事を他の誰かにして、失恋と青春に対する復讐を楽しんでいただけで、もう相手の名前も思い出せないような、実りの少ない恋が多かった。

そんな復讐も、もう終わりにしたい。
結婚して、子供産んで、幸せの形が目に見えるように認識できたら、いろんな復讐を終わらせられるような気がした。

そのために結婚したいだけではないのだけれど。
そうなれたらいいなぁと思った。


30歳の誕生日、彼は指輪をくれなかった。

約束していた日本橋の分子料理のお店は、テンションが下がったから別の日に旅行に行こう、という理由でキャンセルになり、ついに私はプロポーズされることもなかった。その代わり、仕事も今年中に落ち着かせられるから、31の誕生日に結婚しようと言われた。

現実はいつだって変わる。変わり続ける。
彼の現状も、私の気持ちだってそうだ。

三年半一緒暮らしたけど、やはり実らなかったのだろうか。何度も話し合って喧嘩して、今でこそ家事をやってくれるようになったけど、浮気も風俗も辞めたようだけど、果たして人は、どこまで変われるのだろう。

私は、どこまで彼を信じたら良いのだろう。
というか、そもそも信じられるのだろうか。
心のどこかで信用しきれないから、いつも不安で仕方ないのではないのか。

もう今すぐに幸せを目に見えるように欲しくて、ジタバタもがいたり揺らいだりぐずったりしながら、私は今日も東京で暮らしています。

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