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心得①こどもあつかいしない

stand fm の配信はコチラ。テーマは同じだけど、内容はちょっと違う。どちらも楽しんでもらえれば幸い。

作文指導をしたいと思う人は少ない…らしい。だからひょっとしたら、これから人の文章にコメントを入れたり直したりすることになった人は、軽く途方にくれているかもしれない。文章指導のしかたなんて学校では習わないし、英語や数学に比べて指導法の書籍も少ないから。これでいいのかなと思いながら始めることになるのかもしれない。

文章指導を始めてからもう30年になる。30年もやっていれば「これから」の人に伝えられることも多少はある。この投稿から少しずつ、「指導の心得」のようなものを書いていくことにした。作文指導だけでなく、子どもの前に立つときに心がけていること、言葉かけの留意点、そんなことまでも含めて書いていくと思う。誰かの参考になればなによりだけど、ならなくても、まあそれはそれでいい。

一番大事なのは、相手を「ひと」だと思うこと。

その人が何歳だろうが、「にんげん」である。年下だから「かばってやらなくてはいけない」「教えてあげなくてはいけない」「気づかせて導いてやらなくては」などと考えるのは間違いだ。大学で教育を学ぶ人なら、いずれそういったことも知ることになるだろうが、そうではない場合だと、ついうっかり、「あげる・させる・してやる」気持ちになってしまう。「あげる・させる・してやる」は上から下へ向けての言葉だ。対等ではない。そんな気持ちでいると、これまたついうっかり、強制(矯正)の言葉や態度がでてしまう。

文章指導はその人の「思考や価値観」に触れるものなので、矯正の態度は危険だ。こう考えるのが正しい、こういうことを書くように導く、などとなってくると、人の思考は深まらない。目の前にいる「先生」の考え方に沿うものを探し、それ以外は言わなくなる。「先生」と呼ぶ人間が変わるとまた、その人が「言ってほしい」ことを探す。結局大人になってもその場で力を持つ「誰か」が考えていそうなことを探すことになる。自分の言葉や考えは磨かれない。

だから、大切なのは、相手を「人」として遇すること、なのだ。相手の言葉を目下の人間の言葉だと思わないで、自分と対等の、素晴らしい感性を持った一個人として向き合う。相手の言葉が自分の想像と違っても、頭から否定しない。排除しない。むしろ自分が想像もしなかった視座からものごとを見ているのではないかと考え、その言葉の意味を十分に汲み取うろとする。その姿勢がたぶん、「文章指導」をする人にとって、一番の、欠かせない資質だと思う。

「人と人」として向き合えば、相手に恥をかかせたり頭ごなしに叱りつけたりできなくなる。大人が大人に対してそんなことはしないのに、相手が子どもとなるとなぜかそれができてしまう。だから本当に、気をつけなくてはいけないのだ。

相手は「ひと」だ。感性豊かな、多くを吸収する、みごとは「ひと」だ。そのみごとな存在のひとと、ことばを交わし時間を共有する。それが「学びの場」だ。「教えてあげる」んじゃない。自分もともに学ぶ。その気持ちをどうか失わないでほしい。というか、私はそうでありたい。


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