まいねーむいず、ほにゃらら。

言葉の企画2020、早くも第3回目を迎えました。

今回はなんと!!
下書きを書いていました。
えらいね、下書きを書こうという精神がえらいね。
(今回より自分で褒めていくスタイルを採用します。)

というわけで、下書きを下書きのまま晒す下書きスタイルで下記、下書きです。

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いつも要領を得ないnoteだが、今回のnoteは要領を得ない。
なぜなら課題提出前の切羽詰まったときに書いている。
課題を仕上げるべき時間に結論が出ていないnoteを書いている。
時間の使い方を誤ることが多いなと思いつつ、頭の中を整理してあわよくば課題の答えが出ればいいなと思っている。

今回の課題は自分の名前を紹介するというもの。
私はいつも自分の名前の漢字を説明する時、
「自由の“由”に希望の“希”、自由な希望と書いて由希です。」と伝える。

自由な希望。
こう答えるときなんだかいつも照れくさい。
なんなの、自由な希望って。なんかうさんくさい。なんっっっかうさんくさい。

さて、この自由とはなんだろうか。
自由と聞いたとき、連想するものは何か。
自由な暮らしがしたい。自由に働きたい。自由に生きたい。
快適、最適、自分の好きなように、、、etc
なんか良さそうな、なんか自由がありそうな、なんか憂さが晴れるようなそんなイメージではないか。

自由と言えば、わたしは自由民権運動を思い出す。
(なんか口に出すといい感じになる言葉ってありませんか?
墾田永年私財法とか武家諸法度とかバルサミコ酢とかンゴロンゴロ国立公園とかその辺です。)
明治時代、近代化が他国に比べ著しく遅れていた日本は、不平等な条約を交わし他国にしいたげらていた
そんな中で、当時は現在のような選挙制度ではなく、特権階級にのみ与えれており非常に不平等な状態であった。板垣退助率いる
板垣死すとも自由は死せず
人々の自由への希求が、これまでの発展と進化をもたらしてきた。
月へ行きたいと願わなければ、月へは行けなかっただろう。
空を飛んでみたいと思わなければ、飛行機は誕生しなかっただろう。

この人々の希望を持つ力というのは、これまで世の中になかったものを数多く生み出してきた。

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あの、、はい、、、。
下書きです。こういう下書きを読んでもらおうなどという傲慢な手口はあきまへんね。
すみません、二度とやりません。
自由民権運動をうっっっっすら調べて書いてた下書きなのでご容赦くださいませ。

なんやかんやと書きましたが、そもそも使用される場によって良い方にも悪い方にもなる「自由」という言葉にふわふわとした危うさを感じていて、そこに私自身の確固とした意思のないふわふわとした頼りなさが加わり、「自由の“由”に希望の“希”、自由な希望と書いて由希です。」と伝えるときの気恥ずかしさを生んでいた。
自分のスカスカの内面をさらけ出すようで、名前を伝えるのが恥ずかしかった。

けれども、多くの人々が「こうなりたい!」とか「ああしたい、良くしたい!」といったより自由になること、より便利になることを望まなければ、今の世の中はこんなに便利になっていないだろう。
自由に対する希求が人間が持つ最も人間らしい部分ではないか、と思った。
自由な希望という名前は極めて人間の本質に基づき人間の持つ性質を表す名前のように感じられた。

気恥ずかしく感じていた名前だったが、人間っぽい名前だと思うとなんだか少し仲良くできそうな気がする。


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