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頑固でもいいじゃないか。

いくら人格や価値観を否定されようと、わたしの持つ本質や根幹の部分は変わらないし揺るがない。
誰かからの評価によってわたしの価値が決まることはない。
そして、これまで培ってきたものが消えることはない。

3年間、モラハラ彼氏と付き合っていく中で得られた学びでした。

自分と違う考え方を排除する。一個人の考え方など違うことが大前提にもかかわらず、違いを認めず「おかしい、間違っている」と否定する。


なんにせよ、おそらく彼は自信がなかったのだ。
自信が持てないふわふわとどこか背筋が寒くなるような不安を他者で埋めようとする。
その対象が一番近しい間柄のわたしであった。

しかし、自信というものは他者からの評価によって埋められるかと言えばそうではない。
埋めたい埋めたいと思うほど、結局は揺らいでしまう他者の評価が信じられず、安心することはない。
常に何かが足りない虚しさが募る。
それはだんだんとやり場のない悲しみを産む。

他者を否定し認めないとしても、結局は変わらないのである。
自信は自分がしてきたことや自分を認めることで生まれる。

彼が否定し続けていたのは、自分自身だったのだ。

人は違って当たり前だ。
生まれる場所も両親も、育った環境も、何から何まで同じ人はいない。
胎児でさえ、他人とされる。
「法律上、自分以外、全員他人。」大学の法律学の時間に聞いた先生の言葉だ。

ちなみに脳の細胞は1兆個にものぼり、それぞれの細胞はひとつ一つ違う働きをするらしい。

そう聞くとなんだか、胸がすくような気持ちのいい諦めがつかないだろうか。

ひとつの臓器の1兆個という細胞でさえひとつひとつ役割が違うんだから、人なんてちがって当たり前だ。

だからこそ、わたしは他者との違いを認め、見つけて、その“違い”を褒めることで伝えていきたい。

人は違って当たり前なんだから、すごいと感じたものや自分の心が動いたその感動を素直にそのまま言葉にしてしまえばいい。

人と自分を比べてしまうよりも、
素直にあっさりと、その違いを認めてしまう方が断然、楽なのだ。

誰かが褒められていると、なんだか自分が否定されているようで落ち込んでしまう感覚を持つ人もいるだろうが(わたしがそういうたちだった)、決してそうではない。
自分の持つ本質的なものは何一つ変わらない。
あなたの輝きが損なわれることはない。

そもそも、誰かからの評価で人間の価値は決めれるものではない。
自分の価値はいつだって自分が決めるものだ。

決して張り合おうとせず、見たままそのまま感じたものを言葉にする。

違いを認め受け入れる柔らかさの中にも、必死に人の良いところを学んでいきたいという貪欲さもある。

本質や根幹の部分は変わらないからこそ、常に自分を見つめ直し、良いものを積極的に取り入れ自己の成長へつなげていきたい。

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