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「柳宗理 エッセイ」

正直の集積

正直でいることは、実力がそなわっていなければ出来ないことなのだと、この本を読んで改めて思いました。

実はこの本を手にしたのは初めてではありません。本が出版されて間もない2003年の夏頃、大阪の書店で見かけて柳さんの著作と知りおもわず手に取りその場でしばし文章を読み始めました。

いや「痛い」本です。読みながら相当に痛かった。同じ職業であるわたしにはここで書かれているさまざまな指摘はまさに正鵠を得ていて、その上書かれている通りのことをしないままこの歳まで来てしまっている身には、学生時代に戻って教授から叱咤されているような気分でした。

出張中にそんな「つらい」気分になりたくないので、わたしは手にしたその本を積み上げられた山の頂にそっと戻しました。

今回ブックレビューを始めるにあたって柳さんのエッセイを取り上げるにはそういう過去がありちょっと気持ちをふりしぼるものがありましたが、それこそが初回にふさわしいと思ったのです。

●あの時代

わたしが柳宗理さんの存在と作品を知ったのはいつ頃だったのでしょう。大学に入った年1973年のことかもしれません。

1973年は、日本のプロダクトデザインにとって曲がり角の年でした。その年にICSID(The International Council of Societies of Industorial Designers)主催による世界デザイン会議が京都で開催されたのですが、同時に戦前から出版されていた国内唯一ともいえるプロダクトデザインの啓蒙誌であった「工芸ニュース」がいみじくもその「ICSID」特集をもって休刊になった年でした。

未来の希望をおおいに謳った大阪万国博が終わり、反動のように景気が減速しだし、そしてなにより「ドルショック」「オイルショック」があり、未来に対する希望よりもトイレットペーパーの買占めや身近なところではパンや雑誌の価格が倍になり、課題で使っていた木工用ボンドの価格が毎日のように変動するような年でした。

そんな「動く」時代にあって、素朴でやわらかいかたちにつつまれた静かなその柳さんの「カタチ」に、わたしがどこまで「デザインの誠実さ」や「普遍性」を読み取れたかはなはだ自信がもてません。

1970年代は、柳さんにとっても受難の時代であったのではないでしょうか。

●ブームの中で

わたしの中で柳さんの存在が大きくなったのは、1980年代に発売された美術出版社の雑誌「デザイン」における「柳宗理特集」でした。

そこには、食器やカトラリー(フォークナイフ類)、薬缶といった身近な家庭用品だけでなく歩道橋や高速道路の防護壁、横浜にできた地下鉄のキオスクやベンチなどその仕事の多くが公共機器やインフラ(生活基盤)の成立に向けられたことを知り驚きつつデザイナーの社会的役割の大きさを感じたのです。

その感動を身近で感じたいと思い、当時柳デザインをさがしましたが、残念ながらその本に掲載されていた多くの製品が入手することが困難であったことを覚えています。

柳さんの再評価(そういう風に言ってしまうのは申し訳ないのですが)は、今から10数年前にアメリカのデザイナー「チャールズ・イームズ」のプライウッド(成形合板)やFRPの座面をもつ軽量チェアーを核として1950年代のアメリカで展開されたミッドセンチュリーモダンにふたたびスポットライトが当たったことと無縁ではありません。

その脈絡で日本の1950年代や1960年代のデザインに注目がおよび、時代の中心にあったデザイナーとして柳さんとその仕事に注目が集まりました。本の中では、アメリカの大量消費文化に対する警鐘が何度も書かれていますが、その国にあって大量に作ったがゆえに、現代にも数多くの製品が残りかつ大量ゆえに中古品としてもそう高価にならずにすんだこと。

実際のものを使うことによって、再評価されたことを考えると、かならずしもそのアメリカ文化全部を等価では考えられないものも感じます(柳さんもジーンズやジープというアメリカが生んだデザインを評価していますし、名作バタフライチェアーが生まれる背景にはチャールズ・イームズを訪問したことが影響したことも書かれています)。

そのアメリカに寄せる嫌いな部分と魅力と思われる部分の絡み合った感情は、現代では少し分かり難くなっていることもまた事実です。

今や「柳デザイン」は1つのブランドとしてインテリアショップや百貨店で多くの製品が買えるようになりました。椅子や食器類を柳さんの作品でコーディネートしたカフェチェーンまで登場するようになりました。時代がまた柳さんの「カタチ」を求めるようになったのです。

●知的基盤

この本には柳さんの生い立ちや家族についても多く掲載されていて、その部分を知るだけでも得る部分が多いのです。

柳さんの父であり「民藝」という概念と運動の創設者柳宗悦(やなぎむねよし。ちなみに柳宗理さんの正しい読み名はむねみち)の傑出した優秀さ。数学者で貴族院議員もつとめた祖父柳楢悦(ならよし)、日本を代表する声楽家にして宗悦にまけず劣らず強靭な精神力とすべてに才能をはっきする母兼子(かねこ)。

こうやって文章にするだけで読む側を圧倒するような知性の基盤(インフラ)が柳さんに備わっていることを知るわけです。

そして同時にそういう知性に裏付けられた人物がプロダクトデザインの創設期に終生の生業に選んでくれためぐり合わせに感謝の気持ちを感じるのです。

●継続する警句

この本の中に、1883年「デザイン柳宗理の作品と考え」に収録された「デザイン考」という章があります。そこにはプロダクトデザインへの時代を超えた重要な考えと意見が書かれています。

「デザインは一人で成立するものではない」「技術者との協力の重要性」「社会的に孤立してはいけない」「良いデザインはその製品を使うユーザーが良くなければ出現しない」

これらは、25年の時を経てもまったく色あせることのないモノ作りの本質を言い当てた言葉です。

同時に、正論といえるその言葉にのっとらない製品がその後も生産され続けられていて、いつまでも柳さんの言葉が「いまさらのあたりまえの言葉」ではなく「警句」たりえている、この「継続する現状」の強靭さとしたたかさに、それなりの理由とつじつまがあり、その背景をさぐることこそが重要なのだと。

それはわたしたちに残されたメッセージでもあります。もし現状に思うところがあるならば、私たちいやわたしが少しでもそのことに対して「答え」を出さなくてはいけないでしょう。

わたしが今信号機や券売機といった公共機器の仕事に関わるようになった背景には、柳さんの仕事を知ったことと無縁ではありません。
秋田道夫のブックレビュー 2008年 4月
第1回  「柳宗理 エッセイ」

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