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おばあちゃんのこと

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今年の1月13日におばあちゃんが95歳になった。お誕生日に絵を渡したいから、と母から言われて何を描こうかな。と考える。
なんでもいいよ。と言うので、どうしようかな。と考える。

おばあちゃんのことを思うと、私が小学生の頃だったか中学生だったかおじいちゃんが死んでしまったことを思い出す。思い出すといっても、お別れのときのことではなくて(むしろそこは覚えていない。それだったら病院で管が苦しそうだったことと、病院はとてもあたたかい温度で、お見舞いに行くたびにぐうぐうおじいちゃんの足元で眠ってしまっていたことを思い出す)それよりも元気な頃のおじいちゃん。行くとにこっと笑って、玄関すぐのおじいちゃんのお部屋に、おいで、と言われて、こたつに入ると、お部屋にある缶の中から、いっぱい入ったフィンガーチョコをくれた。なんておしゃれなんだ。

おばあちゃんが「おじいさん」と呼ぶ声があたたかくて、いつも気にかけていて、おじいちゃんもおばあちゃんを気にかけている様子がとても素敵だったし、母から聞く母が小さい頃の話もとても幸せそうで、母は結婚してからなんて気の毒なんだろうか…と思わずにはいられない。(人の人生を勝手に気の毒と思うなんてそれもひどい話だけれど)

そんなことを考えていたらおばあちゃんに絵を送るならおじいちゃんがいてほしい。贈るのは母なので、母もいれたい。そうすると叔母さんもいてほしい。でもおじいちゃんも叔母さんももう側にはいないので、いるとしたら
4人の時代のときが、いいかな。となると、もう、このひとたちは誰?という想像でしかない4人の時代の絵になった。

夫婦だからいろいろあったかもしれないけれど、おばあちゃんの一番幸せな時代がここであってほしい、とも思うし、でもそれは良い「思い出」であって、それよりもいつでも「今」が一番幸せとも思ってほしい気持ちはもちろんある。
そして、「今」、側にいる皆様に、悲しい気持ちにさせる絵になっていませんようにとそれが心配もある。そうじゃないんだ。そうじゃなくてね、と伝わるだろうか。簡単なのに複雑に考えすぎているところもある。けれど(自分自信に関しては)それでいい。と思う。
おばあちゃん、大好きです、と思うこともずるいだろうか。だって大好きな部分しか見ていない。
でも言いたいな。おばあちゃん、大好きです。
会ったときに、あんた誰だったかな?となりそうなのも覚悟しております。