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【新古今集・冬歌24】風と時雨と流れる涙

こがらしの音に時雨を聞き分かで
もみぢに濡るる袂とぞ見る
(新古今集・冬歌・575・具平親王)

木々に吹きつける木枯らしの
音があんまり激しくて 時雨の降る音を
聞き分けることができない そのせいで
散っていく紅葉に自ずとわき上がる涙で濡れている
私の袖だと見ていたよ

 どうも歌の中の人は時雨に降られてびしょびしょになっているようです。しかし木枯らしがびょおびょお吹いていて雨音に気づきません。とはいえ雨に降られれば濡れますから分かりそうなもの。しかし気づきません。なぜなら今紅葉が木枯らしに吹かれて飛ばされていくからです。
 どういうことか。
 枝に吹く風に飛ばされ行く紅葉は涙を誘うのです。気持ちの上では泣いていてもおかしくない状況と向き合っているのです。折り良く降る時雨に濡れる袖。
 泣きたい気持ちと濡れた袖の組み合わせから間にありそうな己の涙を想定したのです。手が込んでるなあ。

 木の葉の散る音と時雨の降る音が聞き分けられなくなっていく歌はよく見ます。たとえば

秋の夜に雨と聞こえて降るものは
風に従ふもみぢ鳴りけり
(後撰集・秋下・407・よみ人しらず/拾遺集・秋・208・紀貫之)

秋の夜に
雨が降っているように聞こえていて
本当に降っているものとは
風に吹かれるままに散っていく
紅葉であったのだ

が古い例と言えそうです。さらに有名なのは源頼実が自分の身にかえてでも手にしたいと住吉社に祈願して得たと伝わる一首。

木の葉散る宿は聞き分く事ぞ無き
時雨する夜も時雨せぬ夜も
(後拾遺集・冬・382・源頼実)

木の葉が散る
山里の宿では「これが時雨だ」と聞き分ける
事もありはしない
時雨が降る夜も
時雨が降らない夜も

 このあたりは有名どころだと思います。

 しかし時雨の音が木枯らしの音に紛れてしまうという発想はなじみがありません。具平親王は「博学多識をもって知られ,詩歌のみならず書道,音楽,医術にも通暁していた」(『世界大百科事典』)人です。雨と紅葉の混同がそうだったように、時雨と木枯らしの音の混同も漢詩などの世界から発想したのかもしれません。

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