見出し画像

【新古今集・冬歌20】

神無月木々の木の葉は散りはてて
庭にぞ風のおとは聞ゆる
(新古今集・冬歌・571・覚忠)

神無月ともなると
木々の木の葉は
すっかり散ってしまって
枝ではなく庭で 木の葉を吹く風の
音が聞こえてくる

  風が吹けば木々が揺れて葉がざわめきます。むしろ風の存在を告げるのが木の葉といって良いかもしれません。

神無月寝覚めに聞けば山里の
嵐の声は木の葉なりけり
(後拾遺集・冬・384・能因法師)

神無月になった
ふと目が覚めた時に耳を傾ける すると
この山里での
吹き荒れる風を感じさせる音というのは
木の葉であったのだ

 ところが10月も日を経ると木の葉は散って地面に落ちてしまいます。そのとき北風小僧に吹かれて舞うのはすでに枝の木の葉ではありません。木の葉が飛び立つのは地面からです。
 枝から地面に場を移した美に詩情を見出すという点では次の歌も同様です。

今朝見れば夜半の嵐に散り果てて
庭こそ花の盛りなりけれ
(金葉集・春・58・藤原実能)

今朝外を覗いて見ると
夜中に吹き荒れていた大風に
桜はすっかり散ってしまって
枝ではなく庭が花の
真っ盛りを迎えている

 後の時代に兼好法師は「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」と喝破します。実能や覚忠の生きた頃は「見るもの」の拡大が進んだ時代だったのかも知れません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?