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平安時代と装束と繊維

0、はじめに

 平安時代には被け物(かづけもの)という文化がありました。服をぽいっと、あげちゃう文化です。
 それを物語で見かけるたびに、もやもやしていたんです。

 「汗臭くない?」

 身分の違いがあるとは言え、あげる人ももらう人もセレブでしょ。いくら絹が高級だからといって、服ごときを宝物扱いするような立場でも、お互い無いでしょうに。

 でも彼等はもらって喜びます。「でかした!」と言って脱ぎ渡される主君の服を肩に掛けられると、感謝の言葉を述べながら受け取ります。

 「で、そのお古、どうするん?」

 平安時代の服に関する貴族の事情。ついでにそれらがどこからやってきてどこへ行くのか。
 調べてみたので報告します。新しい情報が分かりましたら随時更新していきます。

1、絹の生成

 貴族の装束の素材はほぼ、絹織物です。絹織物は蚕の糸から作られます。
 では皆さん、蚕を差し上げますので絹織物にしてください。
 ・・・と言われて絹織物を作れる人、あるいはできあがるまでの工程を具体的にイメージできる人が、どれだけいるでしょうか。

 それは、平安時代ならなおさらです。
 蚕を育て繭にし、絹糸をとって織物にする。それを染色裁縫し、一枚の着物に仕立て上げる。その作業はトレーニングもされていない平安の一般民衆に手が出るものではありませんでした。
 だからこそ絹織物は高級品であり、貴族以外に着用する者などいなかったのです。

 では絹織物の生産とは、誰によってどのように行われていたのでしょうか。

 生産工程の最も下流部分にいるのは、どうやら地方の豪族だったようです。
 豪族達は最初、朝廷から技術指導を受けます。そうして蚕を育てる場所と食べ物、そして実際に仕事をする技術者を用意することになります。いくら技術があっても個人で生産するには場所や道具の問題があり、不可能でした。だから豪族の用意する工房に集められ、大勢で生産に従事します。
 そうして生産された絹織物は朝廷及び荘園領主に送られることで、都に届きます。そこから先は貴族の手に渡ることになりました。絹織物は布とは違って民間に流通した形跡が見られません。都に送られた絹織物は、貴族・官人の為に使われたとみて問題無さそうです。

2、絹から衣装へ

 こうして都に送られた絹織物はどうなるのでしょうか。
 朝廷に送られたものは、織部司(お役所です。実際に働くのは工人です。)が受け取り、縫製と染色を請け負い、装束へと仕立てます。これらはもちろん、天皇及びその関係者の為に使われることになるでしょう。むろん、そうした人々による「被け物」=褒美の品にも使われます。
 荘園から送られたものは、貴族の邸宅内で加工されることになるでしょう。その仕事は貴族邸内の女性達が担うものでした。特に女主人格、北の方などは総司令として、邸内の女性達に指示を下し、染色と縫製を行っていくことになります。

 ただ、実際の貴族女性が手を汚して作業に従事したかは分かりません。物語上では、例えば『落窪物語』の姫君が自分の手で裁縫をしている描写は出てきますし、『源氏物語』の浮舟もまた裁縫しています。その様子は『源氏物語絵巻』に描かれており、少なくとも『源氏物語絵巻』制作者にとっては貴族女性が裁縫することはあり得たことと受け取られていることを示します。

 ともあれこうして、絹織物は都にて、装束として着られる物へと加工されました。 

3、装束の流通/意味

 こうして生産された絹の衣服は、日常/非日常を問わず使用されていきます。ただ貴族の世界において、服としての利用だけがなされるわけではありません。平安人たちは、それを様々な機会で褒美として与えます。公的な場で天皇が儀礼的に受け渡すこともありますし、私的な連絡役として働いてくれた者達(連絡相手の家の者であることが多いです)や臨時で雇った女房などに与えられることもあります。

 では与えられる者は、装束をもらわねばならないほど困窮していたのでしょうか。

 貴族と言えども生活に困窮することはあったかも知れません。何しろ宮中では、何を着てもよいというわけではないのですから。官位によって身に着けるべき装束の色は決まっていました。さらに使用頻度の低い礼服などは、上位貴族たちが所有者を捜し回るほど、持っていることが難しいものでもありました。中位以下の貴族やその更に下の官人であえばさらに難しくなります。ですから装束を与える第一の意味として、その実用的な側面を指摘しても問題はないでしょう。



 二つ目の意味として、久保貴子氏は贈与者側から見た時の「所有のまなざし」の存在を指摘されています。何とも面白い表現です。少々引用してみます(世界思想社『王朝文化を学ぶ人のために』より)。

 本来その着用者の身分を示すものであった装束は、王朝文化の成熟とともに、着用者の人となりや才覚をあらわすものとなりました。さらにしばしば、装束はその贈与者との関係を照らし出します。装束の贈与には所有するもの、所有されるもの、という関係がまとわりつきます。宮仕え女房の着用する装束も、それは主人の評価と結びつくものとしてあり、実質的には、その主人が所有するものであったのです。
 装束はついぞ個人的なものとはなり得ないのです。このことは姫君においても、また意外なようですが、男性貴族においても同じことであったでしょう。『蜻蛉日記』や『更級日記』のそれぞれの夫の服飾描写にも、妻側からの所有のまなざしが向けられているのです。それは特権的な妻から夫へ向けられた所有のまなざしでした。

 たとえば十分に出世していたはずの藤原道長に装束を贈り続けた義理の母(藤原穆子)などは、「所有」にこだわった典型的人物かもしれません。どれだけ相手が偉くなろうとも装束を贈る。贈った相手がそれを着ているということは、贈った側と贈られた側との間で縁が生じたということを意味します。むろんその装束が象徴する縁に貼られたラベルは贈った者自身となるわけです。すると「装束を贈った者は、贈られた者に対して(比較的優位な)関係を持つ」ということになります。それが「所有のまなざし」です。


 三つ目の意味、というより二つ目の意味の別解釈ということになりそうですが、装束は「魂の容器」だったという指摘もあります。どちらかと言えば贈られた側から見たときの表現でしょう。
 ちょっと長くなりますが、説明を引用してみます。三田村雅子氏の文章です(ウェッジ選書31『源氏物語ーにおう、よそおう、いのる』より)。

 みなさんご存じだと思いますが、昔はお正月になると着物を新調していましたね。奉公人たちみんなにも仕立て下ろしの着物をあげるということが、その家の人であることのしるしだった。あれは、着物に魂をこめてあげる慣習です。お年玉の「玉」も「魂」だと言われますが、新年のお仕着せも魂を分与する手段です。あげる人の魂を分与する、魂をあげるんですね。着物は魂の容器なんです。ですから着物をまるごと仕立ててからあげる、こういうかたちで人にあげるのがお正月の着物の分与の仕方です。魂はいくら分与しても減らない。どういうわけだか、たくさんあげればあげるほど豊かになっていくというものであります。
 平安時代の作品に、天皇が臣下に大袿を賜わすということがよく出てきます。光源氏が元服式を挙げたときも、左大臣には大袿をあげています。大袿というのは、大きめに仕立てた着物なんですね。すぐ着られるわけではなくて、家に帰ってからほどいてもう一度縫い直すのですが、なぜ着物のかっこうをしているかというと、魂の容器だからなんです。天皇の魂がそこに含まれている。そういうものをもらうということが、臣下としてもっともうれしいことです。見事に舞を舞ったりすると、天皇が着ている着物を一枚脱いであげる。これが最高の贈り物である。そういう考え方がありました。

 僕なんかはあんまりご存じじゃ無い側の人間なんですけど、日本では割と最近まで、着物を人にあげていたみたいです。
 平安時代の世界では、新しい着物ばかりが贈与されるわけではありません。時には装束を与えてくれた人が焚き染めた香りが感じられることが、肯定的に語られることもあります。
 贈与者を感じ取れること。ある種生々しいと言えるほどの縁を結ぶことができたこと。縁形成の象徴としての装束。
 生活必需品としての装束に困っていないのだとしたら、贈与の目的は人との縁なのでしょう。帝との結びつきを頂点とした人との縁、三田村氏流に表現すれば「魂の分与」こそが価値となる。平安王朝とは、そういう世界だったのかもしれません。


4、終わりに

 平安貴族たちは何枚もの絹の装束を身にまとい、都で生活をしています。その一枚一枚の影には地方豪族に集められ、加工技術のトレーニングを受けさせられた民衆がいたことを思うと、平安時代の世界の広がりが感じられる気もします。

 そして貴族の世界にやってきた絹織物は、貴重は貴重ですが、その物質的な意味に加えて精神的、象徴的な意味を帯びることになります。

 与える側の意味。それは新品であっても、与えるという行為そのもので、相手を所有する意味を生じさせるというものでした。それは束縛や呪いという発想にも転化しそうな読み取りです。
 そして与えらえる側の意味。お古はエコ、というわけではもちろんありません。価値ある人から下されたものには下した人の価値が分与されていったのです。物自体ではなく、与えた人の価値が、与えられた人に喜びを生じさせたのでした。

 はんなり雅な平安貴族の「お古」。そこには令和の今にも通じるような「絆」の物語がこめられていたのです。

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