昨今、体罰だ虐待だと話題になる事が多くなりましたが、わたしが子供の頃は教師も平気でゲンコツ落としてましたし、今になってそれが体罰だったか?と言われると、いやーあれは必要な教育だったよ?と思う節が多々あります。

ですが、現代では易々とゲンコツでも落とそうものならすぐに体罰だ虐待だと非難されてしまうわけですから、現代教師は大変だなぁと思うんです。

わたしはその辺りちょっと古い考えの持ち主なので、痛みが躾に繋がると考えている人間です。
というのも、殴る痛みを理解できるのは殴られた人間だけだからです。

これは物理的な事だけ言っているのではなく、精神的なものも含めて、という意味合いです。
何度も理不尽に殴られるのはそりゃ当然よろしくないですが、一度や二度なら理不尽に殴られてもいいじゃない、と思うんですよ。
なぜならそれで「やられて嫌な事は他人にしちゃいけない、そうしないと嫌われる」と理解できるから。
生徒同士の喧嘩だってそう。一度や二度なら殴り合いの喧嘩をした方がいい。それこそ幼いうちにね。
殴られる痛みを知らない奴は、加減が出来ないです。これはマジです。
これ以上やったら死ぬぞってラインを割と平気で踏み越えます。
前述した通り、これは「一度や二度なら」の話であり、常日頃からとなると、それはよろしくありません。

でね。
そういう「殴られてこなかった奴」がいじめっ子になんかなろうものなら、どんな悲惨な未来が待っているか。やられた経験がないから、どこまでもやり続けます。
結果、物理的に殺してしまったり、精神的に追い詰めて自ら命を絶たせてしまったり。
こういうのを制御するための「躾」として、悪い事をしたらゲンコツを落とす、の方が何倍もマシじゃないかと思うんですよ。

でもね…これは良し悪しだなとも感じる部分なんですが、昨今の若者を見てると、わたしの頃よりは遥かに治安はいいんだよなぁとも思うんです。…思うんですが、同時にブッ壊れ加減はわたしが子供の頃の方が抑えられてたよな、とも思うんです。

昔は教師が強行的だったのもあって、反抗的な奴は多かったですよ。それに応じて?対抗して?暴れ回る奴も多かった。
けど、変な話「どこまでやっていいのか」っていう程度の知識について言えば、昔の方が徹底されてたな、と。

もしかしてこれって…って気付いた時、わたしはゾッとしました。

少し話は逸れますが、人間の本質なんてそうそう変わるもんじゃないです。
昔からあった悪習がなくなったとしても、悪習というのは人間の本質から生まれたわけであって、放置したら再発生する、と思うんですよ。

例えば奴隷制度やそれに伴う人種差別。
今は人道的にイカン事だぞと教育されるから発生しないのであって、もしもこの教育をすっ飛ばしたら、100年もしないうちに復活しますよ。
だって自分達のために頑張ってくれる自分達と性能差がない動物(あえてこういう表現をしています)がいたら使役するでしょ、便利なんだから。

例えばブラック企業。
これも奴隷制度にニアイコールな側面があって、毎月のように誰かしらが辞め、毎月のように誰かしらが入社してくるような企業。
普通の企業で言えば、教育コストの分だけ損失となるはずですが、ろくに教育もしない使い捨て、と考えたらそれは収益になるわけです。
前提として続けてもらう事を目的としていないため、限界まで使い潰し、潰れた社員の人生は知ったこっちゃない…これは言い換えると、潰した社員の人生を換金した、と言っても過言ではなく、この表現は人身売買、奴隷契約のそれと酷似しているわけです。
しかもこれは法律や倫理的な縛りを受けて消滅した悪習ではなく、今現在でも横行し時折発覚して事件になる、そんな「人間の持つ悪い本質」の一つなんです。

権力を持つ者は他者を好き勝手に使役し、そして権力は大きくなればなるほど腐敗する。
歴史を追ってみてもこれは必ず発生しており、これこそ「人間の本質」の証拠なんです。

話を戻して。
ではわたしが幼かった頃と今の子供たち、何が違うのかって考えたら、それは「痛みを知らない世代」なんじゃないか、つまり悪い事をしても注意されるだけであって、実態のある罰はなく、それなら注意されないようにやればいい…つまり水面化でやってれば好き勝手できる、と考えている輩が昔よりも増えている、という事になります。バレなきゃOK。
しかもおあつらえむきに現代はネットが爆発的速度で発達していて、水面化で他者を攻撃する土壌が出来ていて…あっ、これ怖いぞ。

昔は隠れてコソコソ悪事を働いている奴はダサい、格好悪い、やるなら正々堂々と悪ガキになれ…みたいな風潮もあって、それが良い事だとは絶対言いませんが、少なくとも姑息なやり方は今以上にやりづらい環境にあったはずです。
それに、昔は全然知らない大人だったとしても、悪さをしてたらその場で怒られたりしたもんです。
近所付き合いもだいぶ希薄になってきて、大人の目の数は昔と比べたら格段に少ない。
これは問題が解決したのではなく見えなくなっただけ、臭いものに蓋をして満足しているだけなのでは?目に見えないから平和、本当にそうなんでしょうか?

「殴らなくても言葉で理解できる」
というのは良く聞きますが、果たして言葉だけで痛みというのを本当に理解出来てるんでしょうか?わたしにはそこが疑問です。
特に昨今では危ないからと遊具が撤去されたり、オーバーな表現をすれば子供たちに過保護になりすぎてる節があります。
モンスターペアレントなんてのもその一例。
怪我をしてからでは遅い、というのも分かりますが、怪我をしたら痛い、だから自己防衛しなくちゃいけないという、生物的本能を学ぶ機会も奪ってませんか?と思うわけです。

社会に出てからでも、特に現場系のお仕事なんかでは危険予知という取り組みをやります。
どのような危険があり、どのような対策を取るか、というミーティングなのですが、これを実施しないと、わかりやすく現場ならば怪我をします。オフィスならば情報漏洩やシステム破損なんてのもリスクの種類です。
どちらにせよ、やらないに越した事はないですが、他社でこういう事故がありました、なんて話を聞くたびに我々も気を引き締め直さねば、とやってる姿を何度も何度も見てきてますし、自分自身もそうしてきました。
そうです、言われただけでは分からない連中ってのは大人になったって存在してるんですよ。

人類の長い歴史を見て、悪人が存在しなかった歴史はありません。一つもありません。
どんな素晴らしいと思われた体制でも、悪は必ず生まれます。
要はその発生する悪とどう向き合い、どう付き合うかという話なんですが、問われるべきは発生率と被害度、どちらにフォーカスするべきなのか?という点なんじゃないかなと思うんです。
現代の流れは規制強化、締め付けを強くする事で発生率を抑制する流れだと感じるのですが、その分発覚する問題は「引き返せなくなったもの」ばかりだな、被害度が上がっているなぁと感じるんです。

被害を抑制するのは大切なことです。
誰しもが願うのは平和に暮らせる事。
そのために幼年期の教育が物凄く重要だと思っていて、躾に痛みを伴わないようにするという事が、情操教育にどんな影響が出てるんだろう…と、わたしは思うのです。

この話は、世の親御さん皆さんが、思考停止で子供を大切に!とかやっていない限り、我が子に素晴らしい人生を歩んでほしいと思う限り、絶対に向き合う問題だと思います。
正直、わたしはこれが正しいと言い切れる考えを持っていません。過保護に傾く現代の流れも、完全な正解だとは思ってません。

確かに、躾と体罰の線引きって難しいですし、明確な体罰があっても本人が躾だと言い張ればそれが逃げ道になってしまう事も認めます。
それでも、ある程度の痛みを伴う教育、子供の視点で見れば経験、これらの事は絶対なくしてはいけないものではないか、とわたしは思うのです。

だからこそ、制度でどうにかしようとか、法律で取り締まろうとか、そういうのはあくまで「補助的な解決策」であって、主導性のある方策ではないんだよという事を、今の親世代がしっかりと理解し、子供に正しい躾を施す事こそ、子供の将来のために必要な事!とわたしは思います。

薬品は分量や用法を変えるだけで、毒にも薬にもなります。
教育は薬品と同じ…という事を、心のどこかに置いておいてほしい。

今回の考え事はこんな言葉で締めたいと思います。

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