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ジャズとクラシックの100年【第2回】 1940-50年代:ジャズ・ミュージシャンからのアプローチ

——「クラシックの演奏家」としてのベニー・グッドマン(1909-1986)

1940年代の前半——つまりは第二次世界大戦で世界中が荒れに荒れていた頃、アメリカ国内ではスウィングジャズを演奏するビッグバンドの人気が頂点に達していた。その象徴ともいえるジャズ・ミュージシャンが、クラリネット奏者のベニー・グッドマン。1934~35年にかけて出演したラジオ番組「レッツ・ダンス」をきっかけに、全米各地でグッドマンは熱狂的な人気を博していた(ちなみにこの番組名「レッツ・ダンス」は、ウェーバーの「舞踏への勧誘」をアレンジした楽曲タイトルにもなっている)。

1938年になるとグッドマンは、それまでのジャズ・ミュージシャンとは一線を画した活動をはじめる。

・1月16日にジャズの楽団として初めてカーネギーホールでライヴを開催。
・4月25日に当代随一のカルテットであったブダペスト弦楽四重奏団と共演し、モーツァルトのクラリネット五重奏曲を録音。
・8月には、アメリカに亡命していたベーラ・バルトークに作品を委嘱し、翌1939年の1月9日にカーネギーホールで初演。

つまりグッドマンはジャズ・ミュージシャンでありながら、クラシックの領域へも演奏家として進出し始めたのだ。とりわけ財力を活かした作品委嘱では、20世紀半ばのクラリネットのレパートリーを語る上で欠かせない作品がいくつも誕生している。一部抜粋してみよう。

バルトーク(1881-1945):コントラスツ(1938)
・ミヨー(1892-1974):クラリネット協奏曲(1941)
・ヒンデミット(1895-1963):クラリネット協奏曲(1949)
コープランド(1900-1990):クラリネット協奏曲(1949)
・プーランク(1899-1963):クラリネット・ソナタ(1962)

著名な作曲家の名前が並んでいるのは、グッドマンが商業的に成功していたからこそ、豊かな財力によって次々と委嘱することが出来た証左でもある。そして、こうした委嘱活動に追随してゆくジャズ・ミュージシャンも現れた。

その最たる例がグッドマンの好敵手であったクラリネット奏者ウディ・ハーマン(1913-1987)だ。ハーマンは当時アメリカに定住していたストラヴィンスキーや、俊英として頭角を表しつつあったバーンスタインに作品を依頼。その結果生まれたのが《エボニー協奏曲》(1945)と、《前奏曲、フーガとリフ》(1949)である。

グッドマンの委嘱作との違いは、ビッグバンドの編成で演奏できる楽曲を依頼した点にある。ストラヴィンスキーに委嘱したのも、彼が既にジャズの編成のために作品——「前奏曲」(1936-7)、そしてポール・ホワイトマンが初演した「ロシア風スケルツォ」(1943-4)——を書いていたからかもしれない。第一線で活躍するクラシックの作曲家がビッグバンドのためにスコアを書くということがまだまだ目新しい時期であった。

こうした前例があったからこそ、1954年にはドイツの作曲家ロルフ・リーバーマン《ジャズバンドとオーケストラのための協奏曲》を作曲するに至ったのだろう(実際、初演日には前プログラムとして、《エボニー協奏曲》が組み込まれている。指揮は後述するエーデルハーゲン)。

そして、このリーバーマン作品をドイツで世界初演したビッグバンドはクルト・エーデルハーゲン楽団、アメリカ初演を担当したのはソーター=フィネガン楽団だったのだが、それぞれの楽団でリーダーを務めるエーデルハーゲンやソーターは、音楽大学でクラシックの専門教育を受けたミュージシャンであるということにも注目していただきたい。

ちなみに冷戦に突入後、ジャズを排斥していたロシアでも1950年代半ばからビッグバンド人気が再燃。そのきっかけとなったのがオレグ・ルンドストレーム楽団であったのだが、このバンドに1961年から1972年まで在籍していたのがニコライ・カプースチンである。そのため初期には、ビッグバンドのための作品を書き残している。

ルンドストレームのもとを離れたあとは、軽音楽や映画音楽のオーケストラと仕事をしたのち、1980年代半ばからは作曲と自作の演奏に専念。日本では2000年前後から知名度を徐々に上げていき、2018年現在は日本のクラシック音楽のなかでは一般的なレパートリーになっている。その出発点は、こうしたビッグバンドにあったのだ。

少し話が逸れたが、いずれにせよ1940年代以降、ジャズ・ミュージシャンがクラシックを演奏し、クラシックを学んだミュージシャンがジャズに進出することが益々増えていくことで、この2つのジャンルはより結びつきを深めていく。

——「ラージアンサンブルの父」としてのギル・エヴァンス(1912-1988)

グッドマンがクラシックへ進出していた頃、ビッグバンドの世界ではクラシック音楽をスウィング化して演奏することが流行り始めていた。クラシックの楽曲をジャズ化すること自体は1920年代からおこなわれていたが、1938年には「クラシック音楽をスウィングにして演奏することは冒涜だ」という主張がニューヨーク・タイムズ紙に掲載されるほど(逆説的ではあるが)クラシックのジャズ・アレンジは広まっていた。

とりわけ、熱心にとりあげていたのはトミー・ドーシー楽団であろう。1937年のレコードだけでも、シュトラウス2世による「青きドナウ」、メンデルスゾーンによる「春の歌」、リストによる「愛の夢」、リムスキー=コルサコフによる「インドの歌」、ドヴォルザークによる「家路」と「フモレスケ」、アントン・ルビンシテインによる「ヘ調のメロディ」……と、7曲ものクラシック音楽をアレンジした楽曲を録音している。

そんな中、楽曲だけでなく、クラシック音楽を意識した繊細なサウンドを取り入れようとしていたグループがあった。1939年に結成されたクロード・ソーンヒル楽団である。音楽大学でクラシックを学んだバックグラウンドをもつソーンヒル(1908-1965)は、フランスの作曲家ドビュッシーのセンシティブな音楽が大好きだったという。

そのためもあってか結成当初からビッグバンドとしては小さめの編成を採用。活動初期にはストリングスを編成に加えた録音が残されていることからも分かる通り、ポール・ホワイトマン楽団のサウンドに近づいたこともあったが、結局はその路線に進むことはなかった。

最終的には木管楽器の音色を積極的に取り入れ、他のビッグバンドと毛色の異なる個性を確立することで名を馳せた。更には、「ブラームス:ハンガリー舞曲第5番」「シューマン:トロイメライ」「グリーグ:ピアノ協奏曲」といったクラシックの有名曲をアレンジし、バンドのレパートリーにも取り入れている。

ソーンヒルが目指したビッグバンドの新たな可能性は、1941年11月にアレンジャーのギル・エヴァンスが加わることで、より際立ったものになっていく。ここではその一例として、エヴァンスが1946年頃に編曲した「アラブ・ダンス」(原曲…チャイコフスキー:バレエ音楽《くるみ割り人形》より「アラビアの踊り」)と「吟遊詩人」(原曲…ムソルグスキー:《展覧会の絵》より「古城」)を聴いていただこう。とりわけ後者のアレンジは、ビッグバンドという言葉からイメージされるサウンドとは全く異なるものに仕上がっている。エヴァンスが生涯手がけた編曲のなかで、いわゆるビッグバンドらしさから最も遠いところにあるアレンジとさえ言えるかもしれない。

そして、こうしたエヴァンスの新たな試みに触発されて生まれたのが1949年と50年に録音されたマイルス・デイヴィス九重奏団による『クールの誕生』というのは有名な話であろう。下記に挙げたのは、そのなかでエヴァンスが編曲を担当した「ムーン・ドリームズ」である。加えてマイルスとエヴァンスだけでなく、このレコーディングに関わったジョン・ルイス、ガンサー・シュラーといった面々も今後大きな役割を担うことになるのだが、それはまた次のお話。

既存のフォーマットにとらわれない新たなビッグバンドの試みはその後、1952年にソーター=フィネガン楽団が録音した「真夜中のそりすべり」(プロコフィエフの映画音楽《キージェ中尉》から「トロイカ」をアレンジしたもの)や、1959年にエヴァンス自身が編曲したマイルス・デイヴィスとの「アランフェス協奏曲」(ロドリーゴが作曲した同作の第2楽章をアレンジしたもの)まで繋がってゆく。このようにして、当初ダンスの伴奏音楽として広まったビッグバンドは、クラシックからの影響も受けつつ姿を変えていったのだ。

ギル・エヴァンスは1988年に亡くなったが、エヴァンスが蒔いた種は21世紀に入ってから大きな花を咲かせている。リーダーの死後も旧来のスタイルを頑なに守る伝統芸能型ビッグバンドも少なくないなか、編成やスタイルを固定させなかったエヴァンスのスピリットは、名称そのものに手垢のつきすぎた「ビッグバンド」ではなく、より広義の意味合いをもつ「ラージアンサンブル」というカテゴリーへと受け継がれたのだ。

かくしてギル・エヴァンスはラージアンサンブルの父になった。エヴァンスの晩年にアシスタントを務めたマリア・シュナイダーをフロントランナーとするラージアンサンブルの作曲家たちについては【第6回】で取り扱おう。

——「進歩主義者」としてのチャーリー・パーカー(1920-1955)

これまで紹介したミュージシャンたちとは別のかたちでクラシックを志向していたジャズ・ミュージシャンも紹介しておこう。ジャズの歴史におけるモーツァルトとも称される天才サクソフォニスト、チャーリー・パーカーだ。
ダンス音楽であった「スウィング」を、座って鑑賞する「ビバップ」へと変貌させた中心人物として知られているが、パーカーは自らが生み出したビバップについて1949年に興味深い発言を残している。

彼いわく「ビバップはジャズの私生児ではない」——つまりビバップはジャズとはまた別の音楽なのだと。しかも、このインタビュー時に強く興味をもっている音楽として紹介しているのが(ビバップは同じ方向に向かってはいないとしつつも)クラシックの作曲家パウル・ヒンデミットの作品なのだ。

パーカーの真意がどこにあったのかは正直なところ分かりかねるが、彼が新たな道を模索するとき、同時代のクラシックを意識していたのは事実であるようだ。34歳で早逝する直前にも、当時アメリカで活動していた前衛的な作曲家エドガー・ヴァレーズに作曲を師事しようとしていたからだ。ヴァレーズは、弟子入りを志願するパーカーの様子を次のように語っている。

部屋へ入ってくるなり、いきなりこう叫んだりした「私を赤子としてうけとめて、音楽を教えてください。いまの私は、ただひとつの声でしか、曲がつくれないのです。私は構造が欲しいのです。オーケストラのスコアが書けるようになりたいのです。お金はいくらでもお払いいたします」

R.G.ライズナー 著/片岡義男 訳『チャーリー・パーカーの伝説』(晶文社,1972年)より引用

こうしたエピソードに触れると、パーカーは進歩主義者(モダニスト)として常に最先端を歩もうとしていたが故に、ビバップという新しいスタイルを生み出せたのではないかとも思えてくる[*註1]。

なお、パーカーは他にも「ストラヴィンスキーの曲は全部いい——それにプロコフィエフ、ヒンデミット、ラヴェル、ドビュッシー……それにもちろん、ワーグナーとバッハも。みんなとにかくこれ以上はないくらいすごい。」(ウォイデック 著/岸本礼美 訳『チャーリー・パーカー——モダン・ジャズを創った男』(水声社,2000)より引用)と述べていたり、別の機会にはベートーヴェン、シェーンベルク、ショスタコーヴィッチの名前まで挙げている。クラシック音楽と出会った1939年以降、亡くなる1955年までの間、パーカーはクラシック音楽に夢中であったことは間違いない。

加えて「ジャズでは、ケントンの曲が一番良かった」「アルトをフィーチャーしていたやつ。ジャズでは、ケントンの曲が一番クラシック音楽に近いと思う。あれをジャズと呼ぶのであればね」(前掲書から引用)とも1948年に語っている。スタン・ケントン楽団といえば、ケントン自身が「プログレッシヴ・ジャズ」を自称し、主なアレンジャーとしてミヨーに師事したピート・ルゲロと、鬼才ロバート・グラエッティンガーを擁していた、当時最も先鋭的なビッグバンドだ。

パーカーが「アルトをフィーチャーしていたやつ」と呼んだ楽曲が何であったかは判然としないが、条件に該当しそうなものを絞っていくと『ア・プレゼンテーション・オブ・プログレッシヴ・ジャズ』(1948)に収録されたケントンとルゲロの共作「エレジー・フォー・アルト」の可能性が高そうだ。そう仮定するならばパーカーがヴァレーズに弟子入りしようとしていたのが、あながち突飛なこととは思えなくなってくる。

もしもパーカーが長生きしていたならば、グラエッティンガーが作曲してスタン・ケントン楽団が1951年に録音した問題作「シティ・オブ・グラス」のような音楽を手がけるようになったのかもしれない。もしもパーカー死去の2年後にわずか33歳で早逝してしまったグラエッティンガーも長生きしていたならば、パーカーと協働したかもしれない。そして次章で取り扱う「第3の流れ」にも違った展望が開けたかもしれない……

歴史に“ if ”が禁物であることを分かっていても、残された資料をもとに想像すればするほど、進歩主義者パーカーの「クラシック憧れ」が、何かしらかの作品へ昇華されるまで至らなかったことに大きな喪失を感じずにはいられない。彼は、次の時代にも必要とされていたはずの人なのだから。

——「ジャズ・ファン」としてのコンロン・ナンカロウ(1912-1997)

この時代の最後にひとり、ジャズ・ミュージシャンではないのだがジャズとも関わりのある作曲家ナンカロウを紹介しておこう。アーカンソー州のテクサーカナに生まれたナンカロウは、18歳の時にストラヴィンスキーの《春の祭典》と出会ったことが決定打となり、クラシック音楽の作曲家になること決心する。

アメリカ共産党の義勇兵としてスペイン内戦(1936-39)に参加し、帰国後は赤狩りを逃れてメキシコシティに移住。父親の遺産が転がりこんでからは働かずに、自動演奏ピアノ(プレイヤー・ピアノ)を使ってひたすら新しいリズムの可能性を追求した。

遺産を食いつぶした後は(当時は3人目の日本人)妻の稼ぎで暮らしていたという、正真正銘のヒモ男でもある。1980年代にリゲティに絶賛されたことで突如70歳手前にして現代音楽の世界で時代の寵児となり、1982年にはマッカーサー・フェローシップに選ばれ、30万ドルの大金を手にすることが出来た。やっと作曲で飯を食えるようになったのである。

こんな摩訶不思議な人生を送ったナンカロウだが、少年時代にはトランペットを練習しており、1920年代にスウィング以前のジャズ(特に好んでいたのはルイ・アームストロング、ベッシー・スミス、アール・ハインズなど)に魅せられたのだという。もし《春の祭典》と出会わなければ、ジャズのトランペット吹きになったかもしれない……といったら、言い過ぎだろうか。

いずれにせよ、ジャズを演奏していたというバックグラウンドは、実際に彼の作品においても聴き取ることが出来る。まずは1940年代の末に作曲された「自動演奏ピアノのためのスタディ No. 3 c」をお聴きいただこう(原曲室内管弦楽編曲版の2種を用意した)。

はっきりとジャズ的なフレーズが含まれてはいるが、複数の声部のリズムの絡み合いは全くジャズ的ではない。ナンカロウの主眼は、こうした多声部によって生まれる複雑なリズムの追求にあった。その試みが結実したのが、初期の代表作ともいえる「スタディ No. 7」だ。下記に用意したのは室内管弦楽編曲版の音源である。

こうしたガチャガチャしたサウンドの源泉にも、実はジャズが関わっている。ナンカロウにインスピレーションを与えたのは、ジャズピアニストのアール・ハインズとアート・テイタムなのだという。

例えば、ハインズ「チャイルド・オブ・ア・ディスオーダード・ブレイン」では0:49頃から、テイタム「ストンピン・アット・ザ・サヴォイ」では0:55頃に、両者ともに突如として大量の音数が挟み込まれる瞬間がある。こうしたサウンドを自動演奏ピアノを通して取り入れているのだ(晩年にはジャズから離れた作品が増えていくが、それでも1960年代末から1970年代頃に作曲された「スタディ No. 41」のような作品もある)。

1940年代末からこのような実験的作品で新たなリズムの可能性を追求していたナンカロウであったが、前述した通り1970年代までは知る人ぞ知る孤高の存在でしかなかった。1980年代になるとリゲティをはじめ、少なくない数の現代音楽の作曲家がナンカロウに影響を受けている(存命中の作曲家では、トーマス・アデスがその筆頭格だ)。

そして、ジャズの世界で初期ナンカロウのような感覚に一番近いのは、ブラッド・メルドー(1970- )『Art of the Trio 4: Back at the Vanguard』(1999)に収録された「All the Things You Are」ではなかろうか。特に冒頭のピアノソロは、基本が7拍子でありながら、途中にイレギュラーな拍子変化や連符が挟まれるため、耳だけではなかなかリズムを掴むことが出来ない。フリージャズのように周期的なリズムがないのとも違う。だが結局のところどういうリズムになっているのかは、そう簡単に理解させない……というバランスが実に初期ナンカロウを感じさせるのだ。

メルドーがナンカロウを意識していたかどうかは分からない。だがメルドーの近作『After Bach』(2018)でも対位法的な旋律の絡み合いがバッハというよりナンカロウ(そしてナンカロウの影響を受けたリゲティのピアノ練習曲集)を想起させる瞬間が度々訪れることは指摘しておこう。

ナンカロウを直接レパートリーに取り入れているジェイソン・モラン(1975- )のようなジャズ・ミュージシャンもいるが、アルバム『テン』(2010)に収録された「スタディ No. 6」のアレンジ2種を聴く限り、リズム的な面白さにはあまり着目していないようだ(ただし、先に収録されているトラック5の方のアレンジでは、自動演奏ピアノを模したような独特のサウンドを取り入れているのがユニークである)。

実際に自動演奏ピアノを用いて、新たな可能性を追求しているジャズ・ミュージシャンもいる。ダン・テプファー(1982- )の動画をご覧いただこう。

この中に登場する技術のなかでいえば、事前にレコーディングして(もしくは打ち込んで)おいたパートとの共演という手法はファジル・サイの演奏する《春の祭典》という事例があるし、人間には弾けない音楽の追求という点ではマルカンドレ・アムランの作曲した《サーカス・ギャロップ》のような事例もある。

これらも面白いが、とりわけユニークなのが最後に登場する手法である。弾いた鍵盤に応じて、自動演奏ピアノが少し遅れてリアクションを返す(動画内では「ファ♯」を軸にして線対称の音を返すアルゴリズムが組まれている)というものなのだが、必然的に対位法的になり、更にはジャズのサウンドからも逸脱していく。

テプファーは、他にもナンカロウから影響をうけて作曲されたリゲティのピアノ練習曲なども取り上げているのが興味深い。最初は原曲通りなのだが、途中から原曲を逸脱して、ソロを乗せるのだ。

更に「Giant Steps」のカバーでは、前述したブラッド・メルドー版の「All the Things You Are」に接近していることも注目に値するだろう。テプファーを経由することにより、メルドーがよりはっきりとリゲティやナンカロウに接近していることが明らかになるのだから。

このようにジャズとナンカロウ(およびリゲティ)……という組み合わせにはまだ見ぬ未来がありそうである。ジェイソン・モランやダン・テプファーを通じて、ナンカロウやリゲティを"発見"するジャズ・ミュージシャンが今後ますます増えていくのは間違いないはずだ。

👉【第3回】1960-70年代:ジャズでもクラシックでもない音楽?


▶脚註

註1:余談だが、弟子入りを志願された側のヴァレーズも、パーカーが亡くなった2年後の1957年にアート・ファーマーやテオ・マセロらの参加するジャズのセッションに何度も参加。その経験が《ポエム・エレクトロニク》という作品に活かされているという(詳細は、沼野雄司氏の連載「孤独な射手の肖像——エドガー・ヴァレーズとその時代」第9回を参照されたし)。


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