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笹川諒『水の聖歌隊』

笹川諒さんの『水の聖歌隊』より、好きな歌を10首ほど。

静かだと割とよく言われるけれどどうだろう野ざらしのピアノよ (「こぼれる」より)

他人が思う自分と、自分が思う自分との差異について。野ざらしになったピアノにも鳴らされるべき音があるように、自分にも自分にしかわからない側面がある。

知恵の輪を解いているその指先に生まれては消えてゆく即興詩(「青いコップ」より)

知恵の輪を解くときの、普段とはちがう指のめまぐるしい動き。それが「即興詩」という言葉で捉えられることで、知恵の輪の鈍くひかる銀色とも重なってとても美しい景として生まれ変わっている。ながれるような下句が音楽のよう。

青いコップ 冷たいことを知りながら触れるとひとつ言葉は消える(「青いコップ」より)

たとえば予期せずに冷たいことを身体が感覚した時に反射的に言う「つめたい」という言葉。もし分かっていればそう言わずに触れることになるだろう。知ることによって失われた言葉(=世界)とその先の無言が詠われている。初句に置かれた「青いコップ」というアイテムが、一首全体をより静謐な雰囲気に包んでいる。

幸せの塑性について(愛されて翼をなくす鳥を見ていた) (「水槽を歩く」より)

「幸せの塑性」は、いちど満たされることで、満たされる前のこころの状態には戻れないということだと読んだ。たとえば鳥籠のなかで何不自由なく愛されて育つ鳥は、もう餌を探したり、天敵から逃れるために翼を用いる必要がない。

涅槃雪 許していたいひとがいてその名前から許しはじめる (「涅槃雪」より)

存在の根拠である名前を許してしまえば、もはやその人のほとんどを許してしまっているといってもいいのではないか、と思う。「涅槃雪」という景もうつくしく、優しい。

水を撒くきみを見ながら知ることが減ることだとは思わずにおく (「パス練習」より)

その人について知ると、当然知らないことは徐々に減っていく、ように思うけれど、きみが水を撒くという些細な行為にもうつくしさが秘められていて、その認識は覆る。二重に納得させられる凄い歌だった。

硝子が森に還れないことさびしくてあなたの敬語の語尾がゆらぐよ (「ビードロ」より)

ぱんたれいで読んでから大好きな歌。硝子の素材がもともと存在していた森へ還ることができないこと。そして、親しくなることで徐々に敬語が薄らいでいくこと。関係性の不可逆のさびしさが詠われている。

近付きつつ遠ざかるひとの指先を心の中でチェンバロに置く (「チェンバロに置く」より)

「チェンバロに置く」という連作の表題歌になっていて、このタイトルの付け方はかっこいい。チェンバロ"を"置くではないところがまず不思議だったのだけれど、この歌を読んで納得する。距離感があやふやな人の指先を、心のチェンバロ"に"置くのだ。

雨の日のプロムナードは雨に濡れあなたはずっとずっとよその子 (「迂回路」より)

プロムナードはフランス語で「散歩道」とか、あるいは「演奏会」などのことらしい。雨の日には当然雨に濡れる。そのように、あなたが他人であるという当然も突きつけられる。

空想の街に一晩泊まるのにあとすこしだけ語彙が足りない (「原光」より)

どんな街なのだろう。たった一晩そこに泊まるのに、まだ蓄えなければならない語彙があるとは。この人はストイックな夢想家だなと思う。


意味を超えた言葉の音楽性だったり、イメージの静謐さだったり、相変わらず美しい歌ばかりで大好きな歌集でした!

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