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コモディティと作家性

一時期、AIで多くの仕事が失われるという話が流行った。現在進行系の話かも知れない。AIがあらゆる予測を可能にすることで、人間のする仕事がとても限定的になるという話だ。

ノーコード、ないし、ローコードは、デザインやプログラミングへの参入障壁を下げた。多くの人がクリエイティブやエンジニアリングの専門知識がなくても、モノ作りやシステム構築に携われる世の中になりつつある。

仕事が減るという話があり、携われる人が増えるという話がある。素直に考えると、これまでの需要と供給のバランスが崩れる。

多くの仕事はコモディティ化していく。ここに起きるのは質の均一化だったり、価格の下落だったりするのだろう。

AIの開発にも、ノーコードツールの開発にも、専門知識が必要だ。AI、ノーコードツールに関わらず、これからも様々なツールの開発には高度な技術やノウハウが必要になる。専門性の高い人の需要は一定量なくならない。

ツールの運用や活用にも技術やノウハウは必要だ。それなりのリテラシーを求められるし、ツールそれぞれは決して汎用性が高いわけではなく、それぞれに学習することが求められる。

しかし、それはかなり限られた世界の仕事だ。

多くの仕事はコモディティ化していく。

そうした中で何が「違い」になっていくのか。仕事が冗長化して均質化してコモディティとなり、誰にも仕事ができ、誰もが平等な社会が訪れる、とはならない気がする(もしかするとそういう世界観が皆で一緒に貧しくなるような文脈に繋がるのかもだけれど)。

属人的な独自性だ。ないし、当事者性と言っても良い。生い立ちとも言えるかも知れない。社会活動の分野では、今、当事者活動が改めて盛んだ。何かを訴えるのに、変えていくのに、これまでの人生で経験したこと(それがしばしば辛い経験であっても)がその礎になっている。

もしくは手技だ。身体性と言っても良いのかも知れない。どんなに良い道具が揃っていても、良い「うつわ」を捻り上げるのに、最終的にモノを言うのは手に宿した技術だ。そこに感性とか工夫と言われるようなものが、独自の世界観を構築していく。

コモディティ化は悪ではない。ただ、おそらく、大量生産でプレス成形され100円ショップに並ぶような器と、作家が窯を焚いて焼き上げた展示会に並ぶような器の差、ということが、一般的な仕事にも起きてくるのではないか。

改めて、カジュアルなティップスではなく、地力や膂力がモノをいう時代になって来た気もするし、それは良いことのように思う。コモディティの海で泳ぐより、山里で暮らす仙人を目指して自己研鑽に励んだ方が、案外報われるのかも知れないななどと思う。


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