06. なぜパラグアイなのか/ Por qué Paraguay? (4)
世間様から自分を認めてもらうという、
今まで経験したことのない功績を得た僕の心は揺らいでいた。
「このまま親父の敷いたレールの上を歩いていくだけでいいのだろうか。」
おそらく、どんな経営者の息子もこんな思いを一度は抱くと思う。
せっかく大学4年間で建築デザインを学んで、その結果が最後にこうして多くの評価に繋がったことは紛れもない真実だ。
この能力と経験を活かさない手はないのではないか。
親父は「建築板金」と言って、鉄板屋根や外壁張りの会社を営んでいた。
中卒で、26歳で独立し、40年以上会社を守ってきた。
その会社のおかげで、親父のおかげで、僕もここまで育つことができた。
会社を息子に継いでもらいたいというのは、親としては当然の考えだと思う。
タイミングよく、パラグアイでお世話になったJefeから連絡があった。
建築ラッシュのパラグアイでは、建築士の需要がこれからどんどん増える。
「こっちで働いてみないか?」というオファーをもらった。
「親不孝」、いつも頭で響く言葉だ。
僕は、親父を裏切り、パラグアイで就職する道を選んだ。
親父にその思いを打ち明けた日のことは今も忘れられない。
高校に入ってから大学が終わるまで、適当な日々を送っていた僕は、
その期間、ほとんど親父とまともに話した記憶がない。
謂わゆる、思春期とか反抗期とかいうやつだったのかもしれない。
その日は、親父と母親と三人で、1時間近く話し込んだ。
というか、9割は僕が自分の思いをプレゼンしただけだった。
「自分の力を海外で試したいこと」
「2〜3年した帰ってくること(さらなる裏切りだ)」
「老後はパラグアイもいいよ」
「日本の将来はどうなるかわからない」
「今まで育ててくれたことに感謝していること」
などなど。
二人ともとても驚いただろうけど、
開口一番の言葉はこうだった。
父親「俺もパラグアイで板金屋やるかあ。」
母親「私も向こうで食堂でもやろうかねえ。」
母親は調理師免許を持っていて、大きな病院の厨房を任されていたことがある。
意外だった。
2〜3年後に帰るという大きな嘘は今も続いている。
大学を無事卒業した僕は、
二級建築士の資格は取得しておきたいということで、
パラグアイ行きを試験後の11月に決めた。
それまで設計事務所でバイトをしながら、準備を進めた。
ちなみにその試験には一点足りず、落ちた。
(翌年の再挑戦では受かった。)
2013年11月22日
2度目のパラグアイの地を踏み、僕のパラグアイ移住がスタートした。
その日は僕の誕生日だった。
***
ここまでが僕のパラグアイに来るまでのきっかけです。
これでもかなり端折りましたが、概要ということでお許しください。
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