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もうひとつの帰る場所①

1994.4.7 17:00
えらい寒いところに来てしまったなぁ。東北本線の駅を降りた瞬間に出た言葉がそれだった。
県内には親戚もいるので実家のある埼玉より寒いというのは分かっていたが、この日は4月とは思えない寒さだった。
駅前の吉野家でその日の夕飯を済ませ、タクシーで契約済みのアパートへ向かった。
この夜から私のこの街での4年間が始まったのだった。

近隣に特に娯楽があるわけでもなく、あったとしても学生の一人暮らしではお金も無いのでこれでよかったのかもしれない。
徒歩数分のところの寂れたバッティングセンターがあり、1回100円で遊べたのでよく通っていた。
当時は今のようにどこかの野球やソフトボールチームに入っていたわけではないが、気軽にできる気晴らしにはちょうどよかった。

食料品の買い出しはそのバッティングセンターから更に数分歩いたところに激安スーパーがあり、賞味期限切れの商品が激安で売っていたのと、レジのおねーさんが美人だったせいかよく利用していた。
新鮮なものを買おうとなると自転車で15分ほど走ったところにイトーヨーカドーの鳩のマークの色違い(緑と赤のツートン)の店があり、聞いたところによると市内のあちこちに同じ看板の店があり、この街発祥の店であることを知った。
外食は近くの国道沿いに県内にチェーン展開するラーメン屋があったが、すぐに飽きてしまったので節約のためにも自炊を心がけた。

GWが終わって夏が近づくと周りの学生はみんな運転免許を取り、夏休み中には中古車を買い、小一時間走ったところのある峠へ繰り出す連中もいたが、私は実家の事情で学費を出してもらうのがやっとで二輪の免許は大学2年で、四輪の免許を卒業間際にやっと取ったのでバイクを買う大学2年までは足に困ることが多かった。
この街の交通事情といえば東北本線が1時間に1本、新幹線は1時間に2本から3本は走っていたが普段新幹線に乗る用事なんかないし、路線バスもあったが1日数本しか走ってなかったのでどこかに行きたい場合は車を持っている友達に連れて行ってもらうか自転車で走る他なかった。

そんな不便な街に移り住んだばかりの頃は「東京の大学を選べばよかった」と後悔したものだったが、住めば都とはこのことで徐々に馴染んでいった。まあ、実家を出たかったわけだからね。
1年生の終わり頃に原付の免許だけ取得し、2年生の初めには埼玉の友達からHONDAのNS-1という50ccのバイクを譲ってもらい、それからはこの街での足となった。

原付1台あるだけで行動範囲がグッと広がり、どこにでも行けるのではないかと錯覚し始めていたが、調子に乗った頃に転倒してしまい車体のカウルやクラッチレバーを破損させてしまった。

この事故が私にとってひとつの出会いを生み出した。
そう、ここ福島県郡山市が私の「帰る場所」になるきっかけとなった出来事だった。

次回へ続く

#この街がすき

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