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第16回『エイプリルフール』――幽霊と写真と文学

 ぼくの家にはモルモットがいる。おそらく今年中に死んでしまうモルモットが。  

 彼の写真は何枚かスマートフォンに記録されているのだけれど、もしあのげっ歯類が死んだ後それを見返したとしよう。それが生前のモルモットを撮影したものなのか、それとも彼の魂が写ってしまった心霊写真なのか、それを区別できる自信が持てるのだろうか。  

 目に見えるということは、果たして「真実」を意味しているのだろうか。

  平井呈一という小説家がいる。本来はイギリス文学の翻訳家と紹介するべきところなのだが、今回紹介するものが小説作品であるためこう記載させてもらう。1975年に没した平井だが、翻訳の仕事の傍ら書いていた怪奇小説をまとめた本があったりするのだ。『真夜中の檻』というタイトルのそれには『エイプリルフール』という作品が掲載されているのだが、ぼくはこの作品の終着の仕方が非常に感傷的な気持ちにさせるものだったため、感想を書こうと思った次第だ。 

『エイプリルフール』あらすじ  

 東京に住んでいる津田江見子という主婦のもとに、一つの手紙が届けられる。イニシャルしか分からない送り主には心当たりがないまま内容を読むと、江見子とその送り主が逢引きをしたらしいということが分かった。夫がいる身である江見子はそんなことをしているはずがなく、義理の弟である英二にはエイプリルフールエイプリルフールの悪戯ではないかと諭される。しかし、その手紙は依然として送られ続け、思い切った英二は手紙に書かれていた約束の場所へと赴いた。彼が目にしたのは十年は若返った江見子と見知らぬ男性がカフェで逢引きをしている様子だった。すぐさま江見子の家へと電話をかけるが、彼女は家の寝室で眠っているということを知らされる。若くなった彼女と行動を共にしていた男性は原田といい、彼は江見子の生霊と何度もあっては交際を重ねているのだった。英二は現実の江見子にはすでに夫もおり、原田が知っているよりも十歳は年老いていることを知らせ、一人と一体の亡霊の関係は断たれた。怪奇現象を江見子へと報告することなく、自分だけの秘密にしていた英二だった。  

 その騒動からしばらく、江見子はガンによって他界してしまう。同時期英二に届いた手紙は原田から出されたもので、出張先の湖で撮った写真に江見子の亡霊が写っていたという内容だった。原田はもうこの世界に江見子はおらず、この湖にいるのだということを悟ったのだという。原田はその場で自死することをほのめかし、英二に別れの挨拶をすることで物語は幕を閉じる。 


心霊写真という「虚飾」  

 と、ここまで書いてきたわけだが、冒頭でも言った通りぼくがこの作品で気に入っているポイントは最後の心霊写真のくだりである。  

 心霊写真というものは、歴史を紐解いていくとかなり古い時代からあるらしい。今でいう心霊写真とはよく見れば人の顔が写っているだとか、あるいはありえない光源やらノイズやらが走っているというのが恒例だ。しかしながら、古い心霊写真というものは、その技術などに関係することで、普通に写っている人間が実は死者であったと紹介されるということが多かったのだという。  

 そこからもう少し技術が発展していくと、合成という概念が知れ渡ることとなる。なんの変哲もなかった人物を写した写真が心霊写真と言われることは少なくなり、結果として現在の形に近い心霊写真や、写っているはずのものが写っていないという写真へと切り替わっていく。もちろん、いうまでもなくそれらは創られたものであるわけだ。ここで考えておきたいのは、心霊写真は画像加工の歴史そのものであり、かつ写真というものがどう受け入れられてきたのかという歴史でもある。  

 今日考えられる写真というものは、加工なしでは考えられない。心霊写真から幽霊が消えて、ぼくたちはそうとは思わないまま心霊写真を創っていく。ぼくもツイッターに載せる写真のほとんどを加工して載せている。そこに幽霊は写っていない。古い心霊写真にだって、当然写っていない。写真とは、幽霊を写すようにはできておらず、ただあとから加工され虚飾を施されるばかりだ。 


文学における幽霊は「真実」そのもの  

 しかしながら、この『エイプリルフール』にとっての心霊写真とは、原田の心を動かすための真実として機能している。そこには科学的に心霊写真なんてものはありえないという指摘や、こんなことで自死を決めることの愚かしさについては言及されない。むしろそこに描かれた、あったかもしれない愛情関係が叙情的に演出されているといえるだろう。  心霊写真には物語がつきものだ。写った人物には場所的か、あるいは撮影者にとってなんらかの意味があるとされることが多い。もちろんそれは、虚飾としての画像へ説得力を付与させる方便にすぎないのだが。    

 では物語からのアプローチとして心霊写真をどうとらえるのか。虚飾である物語を、虚飾である心霊写真を内在させることによって、物語でしかありえない叙情を発生させる。この物語のすべては嘘なのに、その前提で世界を構築することによって、心霊写真の捉え方を変質させているといえるのだろう。はなから嘘であるのならば、きっと心霊写真を本物の写真のように、人の心を動かすアイテムにできるのだ。  

 そもそもがこの作品のタイトルからして、嘘でしかない物語なのだ。だからこそ、どんな嘘でも許される。それで傷つく人間もいない。ぼくたち物語を作る人間は、この嘘とどう向き合うのかが仕事なのだろう  幽霊が見える人  読者には、幽霊を見せることができてしまう。それが小説の、とくにエンターテインメント小説の強みなのだろう。  

 エンターテインメント小説を次に書こうとしていることが要因なのだろうが、怪奇ものの歴史的な作品をめぐること自体、エンタメについての巡礼の一つなのだ。特に日本の文学においては。 

   

 小説を読むという人間はどんどん減っている。特に中高生と接する機会が多い自分としてはこの流れをとても顕著に感じている。にもかかわらず、それでもぼくが小説というものを好きでいることには今までのような嘘や幽霊といった要素が関係しているのだと思う。嘘の約束世界は、きっとほかの媒体との差別化としてなんらか寄与しているような気がしているのだが……。まあ、それに関してはこの先も考えていくしかないのだろう。答えが出せないのはもどかしいが、ぼくが小説が好きであることを確認できただけ、この小説は素晴らしい。これ以上の誉め言葉も思いつかないので、そろそろ終わろうと思う。  

 それでは、また読んでいただけることを祈る。明日もまた、今日より面白い写真について書いていく。


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