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乱読のセレンディピティ (電子文庫版) を読んで もう少し読書論について掘り下げてみました

少し書評記事がお休みになっていました。また、書評記事に戻りますね。

前回の書評記事では、Evernoteで付ける読書ノートに対する自分のスタンスを問われたような気がします。

上記著作を読み終わった後、またまたKindleがおすすめ、としてきた読書論があったので、購入して読んでみました。

また、読書ノートからの引用になりますので、恒例の凡例をお示ししておきますね。

・;キーワード
→;全文から導き出されること
※;引用
☆;小理屈野郎自身が考えたこと

まずは書籍のメタ情報を

書名 乱読のセレンディピティ (電子文庫版)
読書開始日 2022/03/31 09:10
読了日 2022/04/01 15:34

概略・購入の経緯は?

これも読書術の本として購入。
外山氏の著作は買ったままになっているのが一冊あったような。
氏の読書の仕方について学んでみようと思う。

本の対象読者は?

読書論について興味のある人

著者の考えはどのようなものか?

・本に対する考え方

※妙に力を入れるのではなく、風のように読むのがよい
※本は薬ほどありがたいものではないが、やはり、カネを出して買うのが本筋。
※人と交わるには遠くの人がいい、周りの親しい人とだけ付き合っていれば、美しいもの、純なるものに触れることはできない。
※本を選ぶのが、意外に大きな意味を持っている(中略)あふれるほどの本の中から、何を求めて読むか。それを決めるのが大変な知的活動になる。

☆このあたりは、自分でしっかりと本を購入して読書をしている人によくある理論展開でした。
納得です。

・書評について

書評で好評なものと言うのが必ずしも古典になるものではない。25年前の英国・タイムズ紙の書評を紙面に採録したが、その内容は惨憺たるものだったらしい。

→☆これについてはこのような情報を知らなかったため、びっくりしました。短期的な目で見ると評価を誤ると著者は言いたいのだと思います。

※読了をしていれば、物知りにはなるだろうが、知的個性はだんだん小さくなる。

→☆著者の論調の一番そこにあるのは個々では無いかと思います。これは読書好きに対しての戒めでもあると考えました。

・著者にとっての読み頃の本とは

※新刊は新しすぎる。古本は古い。ちょうど世見頃の出版後5,6年という本は手に入れることが難しい。

→☆電子書籍でもそのあたりの本は一番電子化されていないようです。
かなりマシにはなっているのですが、やはり、電子書籍のライブラリでも評価される本が見当たりにくい状況に陥っているな、と感じました。

・速読について

どうしても早く読まなければならないと言う必然によってできるようになってくる。
ある程度の速度感を持って読まないと全体の意味がとれないことがある。

→☆速読を否定するわけでは無いが爆速の速読はあまり意味が無いのでは無いだろうか。

・読書人としての矜持

※心ある読者が求められている。つまり、自己責任を持って本を読む人である。自分で価値判断のできる人、知的自由がある人。

・文章を書くことについて

文章を書くことはある程度の練習をすれば出来るようになるが、話し方、と言うものはそういうわけにはいかない、と著者は考えているようです。
文章を書くのも大変だし、読書も姿勢をしっかりと固めなければ難しいと思うのですが、著者は書く方が楽だと考えています。
このあたりはその人の特性にもよるので、一概に言えないとも感じました。

・積ん読

著者は肯定派です。
また、時期が来れば読めるようになるかも知れない。そして読んでいない、と言うことを覚えていることが非常に重要と考えている。

☆このように考える読書人は多いようですし、小理屈野郎もそのように感じます。

・再読

※百編読み返したら、分かるようになるのか。試した人はなかっただろうが、分かる、のではなく、分かったような気がするのである。自分の意味を読み込むから、分かったような錯覚を抱く。読み返すたびに、読者の持ち込む意味が増える。。そうしてついには、自分の持ち込んだ意味ばかりのようになる。それを自ずから分かったと思い込む。対象の本を自己化している。(中略)何度も繰り返して読む本が5冊か7冊もあれば立派。

→☆なるほど、そういう風にも考えられるのかと刮目の思いを受けました。何度も読まない、と言うのも一つの考え方として尊重されてよいと考えます。
どうしても読みたいな、と思ったら、Evernoteの読書ノートで検索をかけてみて、その内容を確認してみる。それでも読みたいとなったら再読をすればいいと考えました。

・読書ノートについて

※本に執着するのは知的ではない。ノートをとるのも、一般に考えられているほどの価値はない。本を読んだら、忘れるに任せる。大事なことをノートしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても、何の足しにもならない。書物は心の糧である。

→☆養老氏に続き、外山氏も読書ノート否定派でした。
再び、自分の読書スタイルを揺さぶってこられました
養老氏もほぼ文献や書籍を読むのが仕事のようになっていると思われるし、外山氏もそう。
普通の人は知の巨人のような読書が中心の生活が出来ないのだから、やはりnoteは必要と考えます
フラグが立てば、それを検索して探してその内容を復唱するというのはいいことだと考えています。
そこから色々な思索が発展することももちろんあります。そういう意味で、読書がある意味趣味になっている人で、内容をなるべく活用したい、と考えるのであれば、読書ノートの必要性は揺るがないと思います。
読書ノートが要らない、と言っている人たちは、基本的日本が読むのが仕事的な感じの人が多いのではないか?とも考えました。

※博学多識になることは出来る。それと裏腹に、頭の中が空虚になると言うことを教えてくれるものが読書。

確かに本の情報に流されてしまって自分の考えを持てないのは問題だが、それとこれとは論点の破棄違いのような気がしますが、本の情報に流されるだけで「博識の人」が意外に多いと言うことに著者はくさびを打ち込みたかったのではないでしょうか?

・知識の位置づけ

※知識はすべて借り物である。頭の働きによる思考は自力による。知識は借金でも、知識の借金は、返済の必要が無いから気が楽であり、自力で稼いだように錯覚することもある。
※読書家は、知識と思考がそう反する関係にあることに気がつくゆとりもない。(中略)本を読んでものを知り、賢くなったように見えても、本当の人間力が備わっていないことが多い。年をとる前に、知的無能になってしまうのは、独創力に欠けているためである。知識は、化石みたいなもの。それに対して、思考は生きているもの。
※知識、そして思考の根を下ろしているべき大地は、人間の生活である。その生活を大切にしない知的活動は、知識の遊戯でしかない。

→☆これもなかなか辛辣。本を読むことを否定はしないが、思考もしっかりする必要があると言うことだと小理屈野郎は考えました。
そういう意味では今書いているような読書ノートは非常に大切ではないか?と考えます。
はて?本当か?何か代わりになる事柄は?等と思考をしているからです。

・著者の読書に対する考え方

※読書がいけないのではない。読書、大いに結構だが、生きる力に結びつかなくてはいけない。新しい文化を創り出す志を失った教養では、不毛である。
※読書もそれなりに大事ではあるが、それ以上に大事なのはおしゃべり。(もちろん噂話とかではなく学際的な話題でのこと)
※知的メタボリック・シンドロームになっていないかをよく注意すること
※忘却も大事。
※読書などから離れて、リセットする時間を持つ(歩くとよい)

→☆これが著者の結論であろうと考えました。

・アルファー読みとベーター読み

→アルファー読み;テレビで三田や級友の試合の記事のように書かれている事柄、内容について読む側があらかじめ知識を持っているときの読み方。
→ベーター読み;内容、意味が分からない文章の読み方。

☆ベーター読みが出来るようにならなければならない
物語や文学作品はアルファー読みからベーター読みへ移る足ががりのような役を果たしていた。
かつてのベーター読みの出来る人の比率は現代を遙かに上待っていたと思われる。ヨーロッパではラテン語によって、ベーター読みを教えた。
乱読が出来るのはベーター読みの出来る人。
ノンフィクションがベーター読みの中級。哲学書が上
級と考えられる。

・セレンディピティ

基本的には理系でよくあること。文系でこれを起こそうとしたら、乱読が必要。
軽く読み飛ばしたような本の方がセレンディピティは起こりやすい

その考えにどのような印象を持ったか?

昨今の精読イケイケの文化にいい意味でさおを差すような内容だが、ちょっと立ち止まって考えれば、外山氏の言うこともかなり正しいと考えました。
読書をしてカネを儲けようとか、それで教養を確立しようとか、大義を立ててしまうといけないのかも知れないと考えました。

類書との違いはどこか

読書ラブ、という感じではない、ある意味冷めた目線で冷静に読書を捉えているところ

関連する情報は何かあるか

読書論以外にも英文学や人文科学の基本的な考え方について知ることが出来る

この本はどんな心理状況やシチュエーションの時に読むと刺さるか?

読書の疲れたとき
読書について見直したいとき

まとめ

養老氏の著作に続いて結構衝撃的な内容になっていました。
今後の読書は読書一辺倒になるのではなく、いい意味で少し落ち着いて読書と言う行為を少し俯瞰的に見つつを継続していくことが重要ではないかと考えました。
養老氏、外山氏、そして出口氏など、ある程度年齢がいっている人の読書論の場合は、完全に言い切り型のものが多い要です。
若い人の場合は、やはり、遠慮があるのか提案型が多い要に感じます。。
どちらも正解なのだろうと考えますが、ある程度年齢がいっている人の場合はそれが正解だと信じているし、若い人の場合は、これからの意見の変遷も考慮に入れているからではないかと考えました。

少し読書に対する意識を揺さぶられたような気がしましたが、却って自分のスタンスは強固になったのではないかと考えます。


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