想界の新幹線の並行在来線の話

そもそも並行在来線とは

現実の日本において、整備新幹線が開通するとその並行在来線は(一部を除いて)経営分離されている。国鉄民営化よりも後に開通した、北陸新幹線を始めとする整備新幹線は、大都市部を除いて基本的に並行在来線が経営分離されている。

想界における並行在来線

さて、想像地図の人が描いている想像地図の世界(城栄国)にも、整備新幹線の並行在来線が経営分離される設定がある。が、この設定を見た人の反応は、だいたい2通りに分かれる。

「並行在来線の経営分離もきっちり再現していてリアル」という反応と、「何も考えずに現実を馬鹿正直に真似ているだけではないか」という反応の2種類である。

少なくとも想像地図の人は、想像地図は芸術作品だと思っている。芸術作品を見た感想に貴賤はない。どちらも素直な反応だと思うし、その感情を否定する必要はないだろう。しかし、作者の意図としては、「"日本風の世界としての"リアルさのためにきっちりと並行在来線の経営分離を再現した」というつもりもないし、現実を馬鹿正直に真似たつもりもない。

今回はこのことについて書いていこうと思う。

田谷野解釈という話

想像地図には、「田谷野解釈」という設定がある。これは、想像地図の作者は想界の造物主ではない、とする考えのことである。これは、想像地図世界(想界)は作者の理想を体現する世界ではなく、想像地図は旅人や科学者の立場から演繹に基づいて描くものであるという意味である。

すなわち、「こっちがこうなっているのだから、そっちはこうなるはずだ」「現在がこんな結果になってるのだから、過去はこうだったはずだ」という推理の積み重ねに基づいて作るものであって、作者の嗜好や意向の反映は最低限にとどめるべきだという原則である。すなわち、「推理を重ねた結果として出てきたものが作者の嗜好に反するものが出てきたとしても、嗜好よりも推理を優先する」という意味である。

この考え方からすると、

・「作者が経営分離したくないから」と言う理由で並行在来線を経営分離しない設定にするのは → NG

・他部分の設定を突き詰めていくと、経営分離しない設定にした方が辻褄が合うから、という理由だったら → OK

ということになる。

現想対称性という話

想像地図には、「現想対称性」という設定がある。これは、「想界にも想像地図作者がいて、彼または彼女は日本(というか地球)を想像地図として描いている」という設定である。だから、この裏設定を成り立たせるためには、想界は「彼または彼女が日本を正しく思いつけるような世界」でなければならない。

しばしば誤解を受けることだが、現想対称性は「何でも現実に馬鹿正直にする」という趣旨ではない。想界が「彼または彼女が日本を正しく思いつけるような世界」であることは、必ずしも想界が現実に馬鹿正直になることを意味しない。城栄の政治体制は日本とは異なるものだし、都道府県も日本より細かく分かれているため数が多い。

では並行在来線の場合はどうか。仮に想界の並行在来線が経営分離されない設定にしたとして、「彼または彼女」は現実の日本の並行在来線の経営分離を正しく思いつけるだろうか。

それは、おそらく不可能なのではないかと思う。もし想界が、並行在来線が経営分離されない世界だったのなら、日本の並行在来線が経営分離されるという「突拍子もなさ過ぎる設定」を彼または彼女が思いつくことはおそらくできないだろう。並行在来線が経営分離されない世界で、並行在来線が経営分離される架空地図を描くことの積極的な動機を見いだせない。

それでも、「絶対に不可能」とまでは言わない。何かうまい方法を考えれば、想界の並行在来線が経営分離されない設定にしたとしても、「彼または彼女」が日本の並行在来線が経営分離されるという「設定」を思いつくようにできる方法は、もしかしたら存在するかもしれない。しかし、それはあまりにもひねくれている。

東京から大阪まで裸足で歩き続けることは、物理的には可能かもしれないが、そんなことは非常識すぎて誰もやらない。金栗四三ならできるかもしれない?いや、我々は金栗四三ではない。確かに「東京から大阪まで裸足で歩き続けるという記録を達成したい」という動機があるなら、それをする価値もあるかも知れない。が、急いで大阪に行きたい人がそれをするのは、明らかにおかしい。わざわざそんなことをする動機がない。

そう考えていくと、どうしても想界の並行在来線が経営分離されない設定にするなら、「想界にも想像地図作者がいて、彼または彼女は日本(というか地球)を想像地図として描いている」という設定自体を放棄せざるを得なくなるだろう。

なんなら、2011年の想像地図の作者は、そこまで難しいことは考えていなかった。その頃の作者は、並行在来線の経営分離はしない設定にする方向で考えていた。ところが、「想界にも想像地図作者がいて、彼または彼女は日本を想像地図として描いているという設定」について突き詰めて考えていくと、先程述べたような議論を辿った末に、「やっぱり想界の並行在来線も経営分離される設定にしないとムリ」という結論に至ったのだ。

初めから並行在来線が経営分離されるという結論ありきではなく、一周回ってこうなった。

結論

すなわち、「想界の並行在来線を経営分離せず残す設定にする」か「想界にも想像地図作者がいて、彼または彼女は日本(というか地球)を想像地図として描いているという設定にする」かは、片方しか選べないトレードオフである。想像地図の人は後者を選んでしまったから前者は選べない。

換言すれば、想界の並行在来線が経営分離される設定になったのは、他の設定による制約を受けた結果、そうせざるを得なくなったからである。初めから現実をそのまま馬鹿正直に真似ることを指向して作られた設定ではないし、日本っぽくするために取り入れたわけでもないのだ。

田谷野解釈の節では、「他部分の設定を突き詰めていくと、経営分離しない設定にした方が辻褄が合うから、という理由だったら、経営分離しない設定にしてもOK」と述べた。ところが実際には、「他部分の設定を突き詰めていくと、経営分離する設定にした方が辻褄が合う」という結果になった。

並行在来線の設定が「現実を馬鹿正直に真似したものではない」ということはご理解いただけただろうか。


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