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イメージの洞窟展-意識の源を探る-

本展は東京都現代美術館の学芸員である丹波晴美(前・写真美術館学芸員)による企画展。同写真美術館で並行して開催されている「イメージの時間」展と呼応する形で、写真の根源的な意味を問い直す関連性の強い展示構成をとっている。この展示は作品数にしろ作家数にしろ、あまりにも幅が狭い。つまりは、要点を厳選して語り口が明白であった。「イメージの時間」展は写真の時間という名目のもとに、東京都写真美術館の3万5000点超の収蔵作品から、同語反復的に繰り返される重要なテーマである「写真」と「時間」に沿って選ばれていた。一方こちらはというと、「洞窟」に焦点を当てられた、ある種古典的であり原始的な意識の問いが立てられていた。目玉が弱いというわけか鑑賞者は限りなく少なく、洞窟の中を彷徨うごとく写真と向かい合うことができた展示であった。

 会場空間として黒、青、白という3つの部屋に区切られているのが特徴的だった。最初の展示室は真っ暗な空間で文字通り「洞窟」の写真が飾られている。志賀理江子の自己と他者が曖昧になる存在、私は誰でどれが本人か錯乱させる写真。沖縄のガマ(洞窟)を撮影した写真とインスタレーション。そして洞窟の中にあるイメージの泉、意識の起源というべきだろうか、北野謙の幼児を印画紙の上に歩かせ像を定着させたフォトグラムは、意識と外界の接触を表しているのだろう。光は暗闇の存在があって初めて、光の存在を認識できるというものだ。写真発明者の一人であるジョン・ハーシェルがカメラ・ルシーダによって描いたドローイングは、洞窟の内と外であったことは象徴的に映る。つまり、何層にも入り組んだ洞窟内はあたかも人間の意識であるようだし、洞窟の外へ向かうことは意識の根源的な欲望に思えてならない。視覚情報であふれた世界は一つの光を求め彷徨うことを意味する。我々の眼によって日常のありふれた現象を把握、認識できているのだろうか、ということ。


 洞窟を抜けた先にもなお、認識というトンネルを掘り進めなくてはならない。日常のカットアップ、再構築。それが白の空間であった。そこにはフィオナ・タンによるファウンドヴィデオ(撮影者が誰であるかは重要ではない素人によって撮られたもの)による《近い将来からのたより》の映像と、現代美術家ゲルハルト・リヒターの写真と油彩の写真群があった。このことが意味するのは、日常の何気ない瞬間の問題提起と思われる。「みる」ということは、なんなのか? 私たちは対象をしっかり見ているのだろうか? ファウンドフォトは一つ一つは重要ではないし価値はないと思うが、フィオナ・タンの映像作品の編み方、編集は「これから」の映像の行く末を示唆しているのではないかと思えてならない。現前の大海を漕ぎ進めなければ先はない。写真美術館としての使命である作品収集はファウンドフォトへも手を出していくべきではないだろうか。飽和状態の表現の新しい地平を見せてほしいと願う。
 
場所:東京都写真美術館
会期:2019年10月1日〜11月24日

ポンポン!
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写真/工芸/現代美術

コメント2件

fukuda.kojiさん、『ゆるふわ教室』にスキをありがとうございます!

少し読ませて頂きました。わかりやすい説明の中、ご自身の感知された閃きが織り込まれ、上質な論評として愉しめました。
フジミドリさん、
ありがとうございますー。
嬉しいです。🐟
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