見出し画像

【掌編】本を読みすぎると本になる

 祖母からよく言われていたのは、私は本を読んではいけないということだ。
「本を読みすぎるとお前は本になってしまうのだからね。気をつけないといけないよ」
 祖父は本の読み過ぎで、本になった。私の生まれるずっと前のことだ。父もまだ子供だったころの話だ。
 彼は毎日数冊の本を読み、そのうちに日に十数冊の本を読み、更には数十冊の本を読むようになった。寝る間も惜しんで本を読み、仕事や生活を圧迫してまで本を読み、ついには全てを投げ捨てて本を読むに到った。
 そういう書毒に爛れた生活を数年続け、気が付くと祖父は自分自身が本になっていた。
 ずっと書斎に閉じ込もっていた祖父が、部屋の前に置かれた食事に何日も手を付けないままだったので、さすがに心配した祖母が様子を見に入ったところ、祖父の姿はどこにもなく、ただ彼の椅子の上に一冊の本が置かれていたばかりだったという。
 著者の名前は祖父のものだった。手に取ってみた祖母は、やがて、それが祖父の変わり果てた姿であることに気付いた。
 本好きが高じて本になる人が稀にある。それは遺伝性のものである。
 そういう血筋であるなら、強制措置として読書制限もできたかも知れないが、祖父は戦争孤児であり、自分の出自も定かではなかったから、判らなかったのだ。
 そうと知っていれば、あんなに本を読ませなかったのにと、祖母は後悔したそうだ。しかし、本になる病の人は、大抵は手のつけられない書痴であり、祖父の事情を祖母が知っていようといまいと、結果は変わらなかっただろう。
 祖父の本は『柘植の里』という題名で、江戸の頃の武蔵野の風物を書いたという体の随想のようなものだった。
 そして、祖父の本でありながら、祖父自身にまつわることは一切書かれてはいない。
 語り手とおぼしきは村育ちの女で、彼女の娘時代を振り返っての記述という体裁だそうだ。本になった人の本は、その元の人のことが書かれているわけではないらしい。本になるほどの読書家というものは、自分のことを本にするほどには、自分に興味がないということか? しかし、登場人物は祖父とはかけ離れているが、祖母が読めば、祖父の口癖や物の見方がそこかしこに見出せるものらしい。どことなくその人を思わせる文体なのだと。
 祖母はこの奇禍を大いに嘆いたが、本になってしまった人が戻ってくることはない。『柘植の里』を大事に仕舞う一方で、祖父の部屋を埋めていた莫大な数の蔵書はすべて売り払った。そして残された子供を育てるために、更に身骨を砕いた(ちなみに四六時中読書しかしなくなった祖父は、仕事は一切していなかったので、家計はもともと祖母が一人で支えていた)。
 そうして、一人息子を立派に育て上げたのだが、この息子も度を越えた読書家になってしまった。私の父のことである。
 お前の父は読書のしすぎで本になったのだと、本を読むことは危険であると、再三言い聞かせてきたにも関わらず、父は本に耽溺するようになった。血は争えないのだ。
 家には一冊の本を持ち込むことを許さず、学校の教科書すら必要最低限しか読ませなかったのだが、それでも父は親に隠れて、こっそりと図書館にしけこんで、しっぽりと書淫に耽ったという。指に唾を浸し、表から裏からページをめくり続けたという。
 それでも、多少の抑制はあったらしいが、母と結婚し、私が生まれ、しばらくしてから、これまで押さえ込んできたものがこらえきれなくなったように、24時間連続痛読に陥った。祖母は「親不孝者! この書痴が!」と涙ながらに責めたが、父は聞かなかった。本のない部屋に軟禁されたが、そこから抜け出して、失踪した。
 そして、場末のうす汚れた旅館の一室で、持ち込みの本に囲まれたただ中で、一冊の本となっているのを発見された。彼が本になるのは必然だったのだ。
 父は『根曲がり竹の皿』という本になった。明治の頃の奥利根を舞台とした青春小説だそうである。
 失意の母は私を置いて出て行き、私は祖母の元に残された。私を育ててくれたのは祖母である。
 二代続いた碌でなしの血を警戒し、祖母は私に一切本を読ませなかった。本屋も図書館もない文化の死にかけた限界集落に移り住み、近辺に本が一冊もない環境に私を置いた。父のときの失敗を繰り返すまいと、今度は教科書を渡すことも警戒し、私は祖母が教科書を読み上げてくれるのを聞いて、それで勉強をしていた。
 祖母が亡くなるまで、私は彼女の言う通りに生きていて、本を手に取ったこともなかった。家にある本は、祖父と父が変わり果てた二冊だけだったが、それも私は読んだことがない(内容は祖母の話の端々から推測した)。それは鍵の掛った引き出しの奥深くに隠されていた。
 彼女は亡くなる少し前に、その二冊を取り出し、東京の国会図書館にまで赴いた。国会図書館には、本になってしまった人の本を収蔵する部屋があるのだ。彼女はその二冊を寄贈した。自らの死期を悟っての行動だろうか。彼女はそれからほどなくして亡くなった。 一人になった私は集落を出て、町で暮らし始めた。祖母の遺言は「お前は本を読むな」だったので、その言葉を堅く守っている。
 私と本との関わりといえば、夜寝る夢の中くらいだ。私は毎晩必ず同じ夢を見る。 夢の中で、私は本になっている。薄い緑色の皮で装丁された本で、題名は『つるばみとラナンキュラス』。内容は判らない。私は本なので自分自身を読めないし、祖母の教育のせいで、そもそも本の読み方をよく知らない。
 『橡とラナンキュラス』は誰かの読みさしのようで、大きく開かれて机に置かれたまま、吹く風にページがめくられている。ぱらぱらぱら。ぱらぱらぱら。そうやって、風が私をめくっていくのが心地良く感じる。そういう夢を毎日見ているのだ。それは決して悪夢ではない。
 祖母の危惧は正しく、私も油断すると本になるのであろう。私は読書というものに、大きな恐れと、それから少しの蠱惑を感じている。あれだけ祖母に言われているのに、私は一度もしたことのない読書というものに、隠し切れない憧れを感じているのだ。
 祖父と父が沈湎し、墜ちていった読書というのはどのようなものだろう。どれだけ甘美で、どんな快楽をもたらすものなのか。それは、心を広げ、洗い、高め、それゆえに、現実から帰って来れないほどの愉楽をもたらすのだろうか? この世のものではない喜悦なのだろうか?
 祖母との約束だから、私は今後も本を読むつもりはない。だから、あなたも親切のつもりで私に本を貸すとか、本を読まそうとか考えないで欲しい。私には書淫に乱れる昏い血が流れているのだ。私が書狂に堕すのは、思う以上にたやすいことかも知れないのだから。
 あなたも今の生活と私のことが大切なのであれば、くれぐれも私に本を近づけないように。あなたも『橡とラナンキュラス』を国会図書館に持って行きたくはないでしょう?


(記: 2022-04-26)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?