【掌編】蟹の夢

 その地方には固有種の蟹がいて、成長すると10cmほどにもなるが、毒を持っているため食用にはならない。漁の対象にはなっていないので、海岸線の近くの浅い海でのんびりと暮らしている。
 この蟹は夢を見るのだという。
 夜になると砂の中に潜り、体をじっとさせて眠っている。時折こぽこぽと小さな泡を吹く。この泡が蟹の夢のかけらなのだという。
 海中に放たれるこの泡を瓶に集めて、その気体をアルコールに溶かし込む。そしてそれを口にすると、頭の中にイメージが浮かぶ。
 蟹になって、海の底をたゆたい、酸素の入った海水を静かに深呼吸し、海の中から青空を眺めたりするというようなイメージだ。
 それを口にした人は誰でもこのようなイメージを脳裏に抱くのだ。

 海底を歩きながら砂の上に絵を描く面白さ。
 海から上がって、波打ち際で皆で身体を揺するという楽しさ。
 皆で一斉に卵と精子を放ち繁殖をするという喜び。

 そのイメージには、幸せな蟹の生活とはこういうものなのだろうというような幸福感がセットになっている。
 これが『蟹の夢』だ。人とはかけ離れているが、人間としては味わえないような手放しの幸福感である。至福である。この幸福感がやみつきになるため、『蟹の夢』のエキスは珍重される。
 しかし、採集が難しい。まず、安心して眠っている蟹を探すのが困難である。人がそばにいると蟹は安眠できないのだ。
 蟹が安心して眠っていたとしても、蟹の吐く夢の泡はごくごく少量で、人が口にできる量まではなかなか集まらない。
 養殖が試みられたこともあるが、網や水槽の中に入れられた蟹は眠っていても、ほとんど泡を吐かない。人工的な環境では夢をほとんど見ないらしい。
 かつて、人工飼育下においても、何とか少量の泡を集めることに成功したことがあるが、それで得られた『蟹の夢』を試した人は悪夢を見た。

 たくさんの仲間と一緒に真っ暗で狭い場所に閉じ込められ、ギューギューに押し潰され、体は砕けてぐしゃぐしゃのペースト状になる。感覚は残ったまま、手足も千切れ甲羅も砕け、他の蟹と身体は混じってしまうのに、意識だけは残っている。そこに大きな八目鰻がたくさん群がってきて、自分と仲間の混じったドロドロの液体をズルズルと啜られる。その凄まじい苦痛。八目鰻の腹の中でもまだ自分の意識が残っている。苦痛にまみれて永遠に。

 この夢を体験した人は、その後、重大な精神障害を患うようになった。人のそばにいる蟹は幸せな夢は見ないようだ。
 現在、『蟹の夢』の採取はベテランの漁師が片手間で行なっている。彼らは蟹に対するホスピタリティを心得ており、蟹が幸せな夢を見たまま、『蟹の夢』の泡を集めることができる。
 量産できないために、『蟹の夢』のエキスは貴重品であり、この地方の外に出ることもない。
 最初に述べたように、この蟹の筋肉や内臓には毒があり、少量でも食べれば大人でも死ぬことがあるという。その毒成分はごくごく薄いものであるが、蟹の夢の泡の中にも含まれており、これが人に幻覚を見せているのだということである。


(記: 2022-03-16)

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