見出し画像

土の下の言伝て

 私は小さい頃に母に置いていかれた。
 母は別れ際に「必ず戻ってくるから。そのときは一緒に暮らそう。それまでいい子にしていてね」と、そう言っていたという。
 母は私を自分の両親、つまり私の祖父母の家に預けて、どこか遠くに行ったのだという。
 どこだかは判らない。祖父母は教えてはくれなかった。
 祖父母が教えてくれたのは、母の別れ際の一言だけだ。私はとても小さかったので母との約束も覚えていない。だから祖父母の言うことを信じるしかない。
 祖父母は優しかったが、どこか遠かった。抱き付いて甘えても、身体の間に紙が一枚狭まっているような気がしていた。
 それでも私は何不自由なく大きくなった。
 父のことは知らない。母のことも知らないのに、父のことなど幻のようなものだ。祖父母も私の父親のことは知らないようだった。
 その穴に気付いたのは、しばらく前のことだった。学校から帰ると近くの公園に行くことが多かった。一緒に遊ぶ友達はほとんどいなかった。近所には同じくらいの子供はいなかったし、私は級友と遊ぶのは何となく苦手だった。
 公園には木立があって、その間を走りまわって遊んでいた。木の一本一本が友達だった。
 ある日、『肌が赤茶色のケバケバで、風と話すときに笑う』木の根本に、穴が開いていることに気付いた。まるで刳り貫いたような綺麗な丸い穴で、小猫が入れるくらいの大きさだった。スベスベしていて、モグラや虫が開けたような穴には見えなかった。
 何だろうかと思った。手を挿し入れてみると、子供の細い腕は肩のあたりまで真っ直ぐに入っていった。何の穴なんだろう。動物の巣穴なんだろうか。それにしては少し綺麗過ぎるとも思った。少し恐かった。
「姫さま」
 穴の中から声がした。
「姫さま姫さま」
 穴の中から私にだけ聞こえるような小さな声が呼び掛けていた。
「だ、誰」
「ああ、姫さま。良かった、聞こえるのですね」
「な、何」
「わたくしは姫さまへの言付けと言いつかったものです」
「姫さまって、何。私そんなの知らない」
「〇様でいらっしゃいますでしょう?」
 小さな声は私の名前を言った。
「それは私だけど」
「では、やはりあなた様が姫さまです」
 私は混乱した。公園の木の下から、自分を呼ぶ声がする。そしてその声は私を姫さまと呼ぶ。
「あ、あなたは誰ですか?」
「わたくしはお使いです。あなたのお父上からの」
「お父上?」
 お父さん? 私のお父さん?
「お母上からのお使いでもあります」
 お母さん!
「そして、お二人の間に生まれたあなた様は我らが主の娘、お姫さまです」
「え、ええ、なんで。お母さんはどこにいるの? あなたの近くにいるの?」
「主さまがたはここより遠い国にいらっしゃいます。わたくしは長い旅をしてここに参りました」
「なんで、どうやって」
「長い旅、難しい旅でした。それもこれもこの言付けをお渡しするためです」
「言付けってなあに?」
「今、お伝えいたします。……ああ、でもそれはここで口にするには、大きすぎる言葉です。それなのにこの穴は小さすぎる。もっと大きな穴でないとお伝えは難しい。もっと穴を広げますので、少々お時間をいただけますか?」
「どれくらい?」
「明日、明後日までには」
「そんなには待てないよ。言って、お母さんは何だって?」
「申し訳ありませんが、穴が小さすぎる。暫時お待ちを」
 それから声はしなくなった。私は穴に手を何度も突込んだが、何の手応えもなかった。綺麗だけど地面に開いたただの穴のようだった。暗くなるまで、私はその穴の傍にいたが、穴からは声はもう聞こえず、探しに来た祖母に連れられて私は家に帰った。
 その晩、私は高熱を出し、何週間も寝込んだ。あまりに高い熱で病院にも入院した。熱に魘される中で、あの公園の穴のことを何度も考えた。あの場所に行かなくちゃ。
 しかし、何とか家に戻り、歩けるようになったあと公園に行っても、私はあの穴を見付けることができなかった。『肌が赤茶色のケバケバで、風と話すときに笑う』木の根本には何もなかった。
 私はもっと小さな子供のように泣いた。母からの言伝ては永遠に失なわれたのだと思った。
 そして、私は高熱で左耳の聴覚を失なっていた。自分の泣く声も今までとは違って聞こえた。私は片耳を失ない、そのために穴は塞がり、母からの言葉を永遠に聞けないのだと思った。


(記: 2022-02-03)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?