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彷徨うおっさん87 満点主義の日本(6/7) 満点主義では幸福になれない

 前回までをまとめると、戦後の成長期で育まれた価値観に基づく、分かりやすい正解の設定。そしてカテゴライズとランキングによる過剰な他者比較によって、優越感の獲得と劣等感の払拭に苛まれ、次第に満点主義の思想に陥り、しがみつくのではないだろうかと思う。

 気がつくと、時には自分を良く見せ、時には相手を見下し「自分はこんなに完璧に仕上げた、100点だ」「あいつはもう一つ足らない90点止まりだ」などと子供の喧嘩のようなことを繰り返していないだろうか。

 
 無用な仕事の質や完璧さにこだわってアピールしたり、女性ならば家庭で旦那のケツを叩いて満点満点と責め、自分の結婚が傍から見て正解だったと証明したがる。そんな不毛な戦いを繰り返しているように思う。

 また、こうした価値観の中で、新しいことにチャレンジしたり、現場を緩和して動きやすくする方向に舵を切る人は、カテゴライズやランキングの埒外に居ると同時に、それらを崩壊させる存在になる。故に満点主義者に攻撃されている場面をよく見かける。
 攻撃された人の多くは、やむを得ず枠の中で無理やり優劣を競わされる生活に戻っていく。出る杭は打たれるという日本でよく聞く諺は、こんなところにあるように思う。

 元々の国民性なのかは断言できないが、かくもカテゴライズとランキングの無限地獄が、全国民を満点主義の呪縛に陥れているように思う。

<満点主義と、実世界との乖離>


 この呪縛をなんとか解消していかない限り、不要で不幸な仕事や、要らぬ劣等感ばかりに包まれてしまう。もっと考え方を変えていいのではないだろうか。

 例えば経済の話で言えば、年収1000万円でも(望んだ)結婚ができない男女は増えているし、仕事詰めで家庭が冷え切っている人も居る。
 一方で年収300万円でもミニマリストとしてストレスなく暮らし、オフグリッドの生活や、他拠点放浪などを楽しみ、独自の自己実現を介してなんだか毎日楽しいという人も居る。
 極端な例ではあるが、答えが完璧なキャリアに裏打ちされた経済的豊かさに限られないことは確かに思う。

 また、不安定なユーチューバーが、急に配信がバズって大金持ちかつ時の人になるような予想を超えた展開がある一方で、カッチリ安定した仕事に就いているのに、奨学金や住宅ローンなど借金だらけで仕事もつまらなく、なかなか自由になれないという人も居る。
 折角学業も頑張って成績良くして、仕事に就いてもミスなく卒なくの満点主義で頑張っても、そうでない人に経済・自由・生き甲斐で負けてしまう。

 これまた極端な例ではあるが、満点に拘らなかった人の方が余程幸せな場合もあるわけだ。


 昭和のど真ん中では変わり者、放蕩者、落伍者とされていた人や、ごく一部の富裕層の行動でしかなかった事象も、今は、マジョリティとまではいかないにしても、古い時代に比べて選択肢としてありになってきていると思う。

 いい学校を出て、大企業でつまらない仕事をしてという、まさに正解とされる生き方を、苛烈な競争の中で満点主義で目指す生き方は、どんどん厳しくなっていき、勝利したところで幸せも遠のくように思う。


 いずれにせよ世の中というものは、なにか一定の枠があって、それを満たすことが正しいなどという事はない。あったとしても述べてきたように、日本の戦後からの経済成長といった、極一定期間の例外でしかあり得ないように思う。
 一刻も早く満点主義を脱出し、合理的においしく、機動的得点を狙う方法に変えた方がいいように思う。

<気が付いたら椅子取りゲームしている>


 述べてきたように、満点主義は一度正解を決めて、その正解を100点満点まで煮詰め、何処までも競い合うという不毛な生き方である。
 正解などは、人によって異なるし、時代や年齢によってもどんどん移り変わっていくものでもある。
 にもかかわらず、現代は、多くの人に共通して植え付けられた幻想としてのゴールが設定されているようなきらいがあり、
 国内では個々人がその幻想の実現のために、どうでもいい仕事の精度と速度で、どっちが上だの下だのと、醜い足の引っ張り合いまでして、椅子取りゲームに明け暮れている。

 なんとかこの不毛なゲームから脱する方法を検討したいところだが、次回最終回でそのための方法について私見を述べていきたい。

次回に続く

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