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高校中退、松屋バイトから Google 社員になる方法

まえがき

こちらの記事は是非、今の自分に納得がいっていない10代、20代に読んでもらいたい記事です。30代でも遅くないかもしれません。宝くじ以外にも地道な努力による人生の逆転ホームランは存在します。

この記事の目的は、僕がいかにして、高校中退、専門卒新卒1年で退職、松屋バイト、スロッターから、Google 社員になるという軌跡をご紹介することで、今まさに人生に迷っている若者により広い選択肢を提供することです。(一応ディスクレイマーですが)この記事の通りにすれば Google 社員になれることを約束するものではありませんし、もちろん Google が世界の全てではありません。

世界にはたくさんの凄い企業があり、良い待遇を享受しながら自分を成長させられる環境が存在します。そのスタートラインに立つ為の方法をこれから、僕の高校時代から振り返ってご紹介します。内容は本筋とは無関係のことはかなり省略しています(本当はもっと僕の落ちこぼれエピソードを書きたいのですが)。省略した部分は、将来 Google を退職してから細かく書きたいと思います。

第一章:高校時代

なぜ高校時代から話を始めるかというと、皆さんにいかに僕が落ちこぼれの劣等生だったかをご理解頂きたいからです。

僕はごく普通の公立中学から、中堅都立高校に進学しました。本当はトップ校にチャレンジしたかったのですが、当時我が家には私立に行くお金はなかったので、安全に中堅校に推薦で入学しました。高校に入学するとすぐに近所の松屋でアルバイトを始めました。中学の親友の兄がバイト先の先輩だったこともあり、スムーズに仕事を覚え、バイト仲間もたくさんできました。

中学時代は卓球一筋でやってきたので、高校でも卓球で全国を目指すつもりでしたが、高校の卓球部があまり真剣に練習して勝ちに行くという感じではなかったのですぐに卓球へのモチベーションは無くなりました。加えて、これまでいじめられっ子だった反動で若干グレ気味になり、バイトの先輩や多方面の先輩方と夜遊びなぞはじめました。

そんなある日、僕のこれからの人生を大きく変えるものに出会ってしまったのです。そう、麻雀です。ルールを覚えるのは一瞬でした。あまりの面白さに僕は麻雀以外のことは全てそっちのけで麻雀に没頭し始めたのです。他校の不良と付き合いがあったこともあり、いろんな人達と毎日毎日麻雀を打ち続けました。気がつくともう高校にはほとんど行っていませんでした。毎日朝まで麻雀を打っているので、朝起きて学校に行くのはほぼ不可能だったわけです。そんなわけで出席日数が足りなくなり、3年生に進級できないことが確定しました。選択肢は高校で1年留年するか、他校に転校するかでしたが、遅れをとりたくなかった僕は迷わず通信制高校への転校を決めました(両親には結局私立に行くことになってしまい申し訳なく思っていましたし、お金がないのに私立の通信制高校に通わせてもらい感謝しています)。

なぜ転校すると進級できるのかという疑問にお答えしておくと、他校に転校すると欠席日数がチャラになるという裏ワザがあるのです。ですのでほぼ全く学校に行っていなかった僕の欠席日数は1年分全てチャラ、無事同級生達と同じく三年生に進級することができました。通信制高校の授業は中学の範囲のものを復習するものがほとんどでしたので楽勝でした。以上からお分かりいただけるように、僕は高校範囲の授業を全くと言っていいほど受けていないので、いくらか高校範囲の一般常識に欠けるところがあります(例えば、三角関数や元素記号などは全くわかりません)。

ここで突然ですが、通信制高校は時間にかなりの余裕があるので、当時僕の叔父叔母夫妻が住んでいたポルトガルに遊びに行くことにしました。当時17歳、中学英語を引っさげて初めての海外でした。叔父叔母に付き添ってもらいながらポルトガルをほぼ一周した旅は本当に楽しく、旅先で出会ったスペイン人学生の集団との一夜は、僕にスペイン語を学ぶ決意をさせてくれました。帰国してからはスペイン語を学ぶために専門学校への進学を決めていたので、松屋でアルバイトを続けながらスペイン語の勉強に打ち込み始めました。専門学校の入試は難しいものではなく、すんなり希望していた神田外語学院スペイン語学科に合格しました。

第二章:専門学校時代

神田外語学院のスペイン語学科には本当に陽気な人が多かったです。流石にラテン系言語を学ぼうというだけあって、南米留学経験者やハーフがゴロゴロいるクラスに放り込まれ、最初はどうなることかと思ったけれど、みんな明るく陽気な人達ばかりだったのですぐにみんなと打ち解けることができて本当によかったです。

入学してからの8ヶ月くらいは延々とスペイン語勉強に打ち込んだ記憶があります。そして8ヶ月でスペイン語検定4級が取れたので、そこからはごく普通の気楽な学生生活を送っていました。みんなで車で夜中まで出かけたり、荒川の花火大会を特等席で観たり、アフター6でディズニーに行ったり、スロットで小銭を稼いだり、学園祭で出店をだしたり、人生で最も楽しかった学生生活だと思います。

神田外語学院では英語の授業が必修なので、1日の半分は英語の勉強をすることになります。ただ、スペイン語学科の生徒はもれなく英語という言語をバカにしていたので、誰一人真面目に英語に取り組んだ生徒はいなかった記憶があります。ただ、英検2級に合格すると学院から報奨金が出るというので2級の勉強だけ超短期間して取得したことを覚えています(二次試験の面接の「態度」が悪かったせいで一度二次試験に落ちました)。

二年生になるとすぐ就職活動が始まります。僕は特にやりたい事もできる事もなかったので、唯一興味があった教育分野に絞って就活をすることにしました。結果、第一志望の某大手個別指導塾に内定をもらうことができました。その後はスペインのグラナダに一ヶ月留学し、スペイン語を使って一ヶ月遊び倒しました。高校をドロップアウトし、一度は人生のレールから外れてしまったことを後悔していましたが、無事就職が決まり、元のレールに戻れて一安心というところでした。

ちなみに、専門学校時代も松屋のバイトは続けていたので、その頃にはバイトキャリア5年のベテランになっていました。麻雀も趣味程度に続けていて、一度だけ大会にも出たことがあります。日本麻雀機構という団体が主催した大会で全国ベスト50位くらいの成績を残しました(今でも悔やまれる、全国大会でボーっとしてあの6ピンを打たなければきっと優勝して世界一周旅行をゲットできていたのに…)。

第三章:就職から一年で退職

2008年4月、ついに専門学校を卒業し、某大手個別指導塾に就職しました。講師としてではなく、教室運営としてです。厳しい三ヶ月の研修を終え、全員配属が決まりました。僕は研修の成績が悪かったので、OJT 扱いとなり、研修後すぐに役職にはつけませんでした。それから半年くらいしてやっと副室長という肩書をもらった時は結構嬉しかったのを覚えています。

学習塾で働くというのはどういうことか、正直にいって学生時代には全く想像がつきませんでした。僕がこの会社に就職すると決めた最大の理由は、会社の理念に共感したからでした。しかし、現実は厳しく、想像していたものとは全く別のものでした。1日の労働時間が9時間だったことなどほぼ皆無で、会議がある日は15時間労働でした。また、週単位や月単位の入会ノルマが厳しく、社員はとにかく新規生徒の獲得に全力を注ぐというのが社員の主な仕事でしたので生徒と向き合う時間など全く取れないというのが現実でした。

僕はそれが嫌で嫌で仕方がありませんでした。会社の理念は、入会ノルマを達成することとは全く別の方向を向いていて、とても素晴らしいものでしたが、僕は初めて大人の世界の現実に直面したのです。ここで僕はある決意をします。「こんな会社で入会ノルマなんかに追われて自分のやりたいことができないなら、自分で経営を勉強して起業してやる!」と。決意を固めてからはスムーズでした。すぐに辞意を伝えると、エリアマネージャー面談の後、即退職することができました。

皆さんご存知の通り、「新卒で入った会社を1年で退職」というのは今の時代特段珍しいことではありません。ここからがこの物語の本番です。僕はここからどう人生をシフトさせて Google 社員になったのでしょうか。次章からその軌跡を追って話していきます。(ちなみにこの一年の間だけは松屋バイトは退職していました)。

第四章:夜間大学入学から MBA を目指す

さて、経営の勉強をすると決めた僕は大学に行くことにしました。当時21歳。退職したのが3月だったので、次の大学入試は翌年ですので、1年間受験勉強をすることにしました。しかしここでまた事件が起きます。

当時ゲームセンターに通い始めた頃で、ガンダム vs ガンダム NEXT というゲームにドハマリしてしまったのです。勉強しなくてはならないのに、ゲーセンの友達は増える一方で、毎日ゲーム仲間とゲームをして、その足でみんなで飲みに行くというルーティンが楽しすぎて、勉強が全く手につきませんでした。

そうこうしているうちにあっという間に時は流れて、大学入試に臨むことになりました。本当は明治大学の経営学部に行きたかったのですが、まぁ受かるはずもなく、東洋大学経営学部の夜間コースに入学することになりました。しかし入学した時には既に1年前の「起業して生徒と向き合える塾を作る」という熱い情熱はほぼ無くなっており、大学の授業もほどほどにしか取り組めていませんでした。

夜間大学ですので、日中は仕事をします。まず格安航空券の会社で契約社員として働くことにしましたが、会社の飲み会で社長に「社長!俺がお客さんと電話してるときに隣で怒鳴るのやめてくださいよ!w」と言ったら、次の日の朝電話がきて「今日から来なくていい」と言われクビになりました。次に、パソコンのリース会社で働き始めましたが、こちらも社長に嫌われてしまい1年でクビになりました。そしてやはり俺にはここしかないんだ!と松屋に出戻ったわけです。15歳から松屋でアルバイトをしていた私はそこそこのバイトレベルで、お店のお金の管理や翌日の発注まで任されるようになっていました。

そうこうしているうちに2年が経ちました。このまま卒業して起業できるのかなぁなんてバカなことを考えていたある日、僕は運命の本と出会います。それがこちら、田村耕太郎先生の「君に、世界との戦い方を教えよう 「グローバルの覇者をめざす教育」の最前線から」でした。

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読んだのは10年ほど前なので詳細までは覚えていませんが、とにかく世界には凄いエリートがたくさんいて、世界を飛び回ってグローバルに活躍するスーパービジネスマンがいるんだということがわかりました。この本を読み終えた時、僕はグローバルビジネスマンというものに強烈な憧れをいだきました。そして MBA をとれば今からでも人生を挽回できるチャンスがあると考えたのです。

僕は早速 MBA とは何か、どうやって取得するのかなどリサーチをはじめました。情報はすぐに手に入りましたが、調べれば調べるほど僕の前にある障害は絶望的に大きなものでした。まず、以下4点が大きな障害だということがわかりました:

1. MBA の2年間の学費と生活費は1000万円

2. TOELF iBT 100点以上

3. 3年以上の正社員としての就業経験

4. 大学の総合 GPA (平均評定) が3.5以上

まず、1000万円なんてない。どうやっても工面できない。TOEFL がどんなものかわからないけど、海外大学院レベルの英語力が自分にあるとは思えない。3年以上の正社員経験がない。大学の GPA は現在2.3程度しかない。絶望に打ちひしがれる中、偶然検索で見つけた、表参道にある大学院留学コンサルティングという会社を訪ねてみることにしました。そこで自分の現状を包み隠さず話し、僕が海外大学院に留学できる可能性があるかを一緒に考えてもらうことにしたのです。そして出た結論がこちら:

1. 1年制の大学院なら費用は安くできる

2. TOEFL 80点で入れる大学院がある

3. 正社員としての経験が3年以下でも入れる大学院がある

4. 大学の GPA を考慮しない大学院もあるし、僕の場合は今から頑張れば挽回できる

以上のことから、ターゲットを:

1. University of Rochester (Simon) MBA 

2. Oregon State University MBA 

3. Hult International Business School, Master of International Business (MIB) 

の3つに絞って対策をしていくことになりました。この日から、僕は意識を改めて大学の勉強に打ち込むようになりました。全ては最高評価をもらい続け、GPA を上げるために。結論から書くと、この日から2年間、大学卒業まで僕はオールS評価を取りつづけました。その結果卒業時の GPA は確か 3.3 程度だったと思います。ちなみにハーバード大 MBA に行くような人達は GPA 4.0 か 3.9 だそうです。

さて、次に英語の話です。詳しい勉強法は別の記事に書きますのでここでは簡略的に書きます。まず、自分の実力を知るべく TOEFL を受けてみることにしました。目標は80点。なんと初回の結果は30点台で、惨敗どころかかすってもいませんでした。ご参考までに、英検2級では TOEFL では良くて120点満点中40点台だと思います。いよいよ尻に火がついた私は、大学院留学コンサルティングの斡旋で、TOEFL 対策英語の個別指導を受け始めました。それと同時に、御徒町にある MBA 英語請負人、Yoshii English School (通称 YES) にも通うことにしました。そこで僕はまたしても運命の出会いをします。偶然横の席に座っていた T さんの学習予定表を見てしまったのです。彼は東大卒富士通の海外部門でバリバリのビジネスマンでした。僕は彼に教わるがままにまず、iKnow! というサービスを使って英単語の勉強からはじめました。まとめると:

1. 大学院留学コンサルティングで TOEFL 対策

2. YES で文法とライティング、リスニングを学ぶ

3. iKnow! で英単語を勉強

ここで改めて僕が松屋出身だということを強調しておきますが、大学三年~四年の二年間は、松屋バイトとスロットで生計を立てていました。当時ゲーセンで出会った先輩Mがスロプロだったことで、彼に学び最終的には数百万円稼がせてもらいました。バイトが無い日は朝からパチンコ屋に並び、一段落したら勉強に戻るという生活を二年間続けました。先述したガンダムのゲームも続けており、全国大会出場一歩手前まで行くくらいに強くなっていました。更に付け加えると beatmania IIDXというゲームもその頃はじめてこれにもドハマりしてしまい、多くの時間とお金をかけました。今となっては良い思い出です。

そうこうしているうちに大学四年生も終わりが近づき、いよいよ MBA 入学のための出願の時期がやってきました。ただ大問題だったのが、1月の時点での僕の TOEFL スコアは未だ 60点台だったことです。このままではダメだと思い、ますます iKnow! での単語学習に打ち込むようになりました。

更に一度アメリカに行ってみて英語を勉強するのもありだと考えたところ、偶然僕がやっていたガンダムのゲームが北カリフォルニアでブームになっているという情報を得ました。そこで僕は、北カリフォルニアでゲームコミュニティを主催している B くんに Twitter でコンタクトをとりました。「ゲームを教えてあげるから、1ヶ月ホームステイさせてくれないか?」するとなんと答えは二つ返事でOK!即座に北カリフォルニアの彼の家にホームステイに行くことになりました。彼の家はいわゆる大豪邸でした。

ご両親は中国系アメリカ人で、サンフランシスコで結婚式場経営で大成功しているご家庭でした。彼は僕にバス・トイレ付きのゲストルームをあてがい、毎日一緒にゲームをしました。結果から書くと、このホームステイで僕のスピーキングは飛躍的に向上しました。自分でもわかるくらいに発音が良くなり、これまでは聞いてこなかった生きた英語に触れられたのは最高の体験でした。

ただ英語学習者の方に覚えておいてもらいたいのは、「海外には、日本でやれることをすべてやってから行け」ということです。基礎が無いままいきなりアメリカに行っても効果的ではありません。しっかりと、英検準1級ないし TOEFL 70 ~ 80 点程度の単語力と文法を日本で身につけてからアメリカに行くべきだと僕は思います。

帰国すると時はすでに2014年5月、MBA 出願の期限までもう一ヶ月程度しかありませんでした。帰国してすぐ TOEFL を受けてみましたが結果は77点と、あと3点目標に届きませんでした。そこで University of Rochester (Simon), Oregon State University は候補から外し、Hult International Business School の Master of International Business (国際経営学修士)一本に絞って最後の TOEFL に臨むことにしました。

幸い Hult International Business School のリクルーターは寛容で、ギリギリまで出願を待ってくれるとのことでした。そこから最後の追い込みをかけ、8月に10回目の TOEFL でギリギリ80点ピッタリを取ることができました。9月には授業が始まるので TOEFL で合格点を取ってからは超高速で手続きを進めました。

Hult International Business School は世界中にキャンパスがあるビジネススクールです。本部はボストン校にあり、ロンドン、ドバイ、上海、サンフランシスコなどに分校があります。多くのアジア人はアメリカやロンドンに留学しますが、僕はお金がなかったので、滞在費の一番安い上海に行くことにしました。1年間の中国生活の始まりです。

忘れてはいけないお金の話もしておきましょう。大学院留学にかかる大きなお金は授業料と生活費です。Hult International Business School の授業料は奨学金割引を引いて約400万円でした。そこに滞在費月16万円程度で総額200万円、合計600万円の資金が必要でした。手元資金はゼロ。さてどうやって工面したのでしょうか。もちろん借りたのです。まず授業料は先払いなので400万円という大金が一括で必要になります。そこで頼ったのが、日本政策金融公庫の学資ローンです。ここから350万円調達しました。更に、月々の生活費をまかなう為、日本学生支援機構の大学院留学奨学金を申し込みました。これで毎月約18万円程度のお金が振り込まれますので、切り詰めれば上海なら生活していけます。

さらば松屋!10年間支えてくれて本当にありがとう!これからも食べ続けるよ!

第五章:Hult International Business School の Master of International Business(国際経営学修士)プログラム入学から学位取得まで

新卒で入った会社を1年で辞めてから早くも5年が経ち、26歳の9月、僕は上海のアメリカンビジネススクールに入学しました。Hult International Business School は 世界のビジネススクールの中でも国籍や民族の多様性ランキング世界一位の大学院です。上海キャンパスの日本人は僕一人だけでした(思えばこれが僕の今後の英語力向上に大きく寄与しました)。

MIB コースも例にもれずとんでもない多様性を誇っていました。MIB コースの特徴は学生が若いことです。MBA は最低でも3年以上の職歴がある大人が通うのに対し、MIB は学部卒から直接入学してくる人もいました。ですので、当時26歳だった僕は最年長層でした。そして学生の殆どは実家が太い家が多かった、本当に太かった。特に東南アジアから留学してくる学生は富豪の子どもたちばかりでした。僕と同額の授業料を払って東南アジアから親の金で留学してくるんですから当然ですね。

Hult International Business School は1年を5分割にしていて、第1学期から第5学期まであります。第1学期は地獄だったのをよく覚えています。僕は TOEFL で80点を取得したので、そこそこ英語に自信があって上海に行きましたが、実際の日常生活で使う英語や、授業で使うビジネス英語に関しては全くの素人でした。とにかく最初は授業についていけないことが悔しくてたまりませんでした。

毎日8時間勉強してやっと予習復習ができる、そこから更にチームでの課題が課される為、6人でミーティングを毎日行いチームとして行動します。職歴がない人が多いチームだったこともあり、最初の2ヶ月はみんな手探りでミーティングを行い、なんとか課題を提出する毎日が続きました。しかしそこは MBA (MIB) の学生たち、毎日21時頃になるとみんなで上海の外灘という繁華街にクラブ遊びに行くのです(いわゆる Work hard, play hard の精神ですね)これも仲間を作る修行と思って、体調的には最悪だったけれど断らずクラブ遊びや飲み会に参加し続けました。

僕がラッキーだったのは、1学期の時点で親友と呼べるアメリカ人の友人 B ができたことでした。彼は明らかに天才肌で、学校の授業や課題など屁でもないという感じで、とにかく上海を満喫して遊び倒すことに熱中していました。授業でわからないことはとにかく彼に聞きにいき、一緒に飲んで英語を鍛える毎日を過ごしました。2学期以降になると更に友人は増え、みんなが僕を助けてくれるようになりました。これは後から友人に聞いたことですが、「1学期の時のお前の授業中の英語での発言は誰も理解できなかった」だそうです。

時は飛ぶように流れ、3学期。この頃になると英語にも余裕が出てきて、友人 K や M が毎日勉強を助けてくれたおかげでなんとか平均以上の評価を貰えるようになりました。この頃から、できるだけいい評価を取りたいという願望が芽生え、より一層授業中の発言や期末テスト対策などに打ち込むようになりました。余談ですが先述した天才友人 B は結局最後まで遊び倒した上で主席で卒業しました。

Hult International Business School では、4学期と5学期はキャンパスローテーションがあり、希望すれば他のキャンパスに移籍して授業を受けられます。ですが上海キャンパスの学生たちは、中国という慣れない土地と文化にさらされ続けた結果、あまりにも絆が強かったので他のキャンパスに移籍する人は少数派でした。これも他のキャンパスから移籍してきた学生から聞いたことですが、「上海キャンパスの学生たちは仲が良すぎて、後からローテーションしてきた学生は輪に入りづらい」だそうです(笑)。

そしてあっという間に第5学期の最終課題を迎えました。最後の課題は、本物のインテル社員が学校に来て問題を出してくれます。その問題をどうやって解決するか、チームで取り組むというプロジェクトでした。僕たちのチームは最優秀こそ逃しましたが、好成績を修めていざ卒業ということになりました。

第六章:就職活動

第4、第5学期になると、多くのビジネススクールでは就職活動が始まります。ボストンのジョブフェアなどに参加して、既にもっと早い段階で就職が決まっている学生もいました。一人例を挙げると、サンフランシスコ校出身の日本人の友人 S (なんと当時23歳!)は、ローテーションで第5学期に上海キャンパスに来ましたが、彼は第3学期の時点でアクセンチュアの戦略コンサルタントとして内定を得ていました。また、インターンシップに行く学生も多くいました。僕は学校の勉強についていくのがやっとだったので、インターンシップをする余裕はありませんでしたが。

海外の就職活動やり方は、日本のそれとは全く異なるもので、正直面食らったというのが感想でした。何が一番違うかというと、日本では転職活動サイトに登録して、意中の企業に申し込む方法が一般的ですよね。海外ではみんなとにかくコネクションを使って就職活動をするのです。とにかく人に会いまくる、名刺を渡す、面接の約束を取り付けてくる。という僕にとっては全く新しい文化を体感したのです。僕はこれを難しいと感じました。非効率的だし、ネット上で就活をしたほうが門戸は広いに決まっていると。卒業後、どの国や地域で仕事をしたいかについて希望はありませんでした。とにかく借りた奨学金を返せるだけの給料を貰えればどこにでも行くつもりでした。

LinkedIn というサイトをご存知の方も多いと思います。恥ずかしながら、僕は第5学期に就職活動を始めるまでその重要性を知りませんでした。今例えばあなたが外資系企業の面接を受けるとします。まずあなたがすべきことは、面接官の名前を聞き、その人を LinkedIn で検索することです。そうすることで、面接官がこれまで何をしてきて、今何をしているのかがわかります。こういった事前情報は面接においてとても重要なのです。

僕は LinkedIn と、海外のリクルーティングサービスにいくつか登録して就職活動を進めました。次第に何件か面接を受けられることになり、ついに最初の内定を手にしたのです。ロンドンに本社がある翻訳サービスの会社で、日本語の翻訳作業をする仕事でした。勤務地はなんとフィリピンのボラカイ島で、月収は8万円でした。でも僕は飛んで喜びました。新卒で入った会社を辞めてから、長い長いトンネルの中にいて、ついに経営学修士を取得して職まで得られたと、本当に嬉しかったのを覚えています。

時を同じくして、LinkedIn であるリクルーターからメッセージを受け取りました。内容は「Google でのお仕事に興味はありませんか?今 Google でゲームやアニメに詳しい人を探しているんです。一度お話できませんか?」とのことでした。ここまで一切触れませんでしたが、僕はガチガチのアニメ・ゲームオタクです。日本の IP (知的財産) 産業のことなら任せておけと意気込み、リクルーターと話すことになりました。

ボラカイ島でのんびり翻訳の仕事をするか、日本に帰ってバリバリ働くか迷いましたが、僕は日本に帰って Google で経験を積むことを選びました。

リクルーター「わかりました!再来週の月曜から来られますか?」

僕「(いやいや待て待て、再来週って…おま…)行きます!!」

卒業式が10日後だったので、卒業式とパーティーに参加してその足で日本に帰りました。そして帰国して2日後には六本木ヒルズのオフィスに到着していました。

第七章:そして Google へ

*この章では実務について書きたいのですが、守秘義務があるため詳細な業務内容については言及を避けることをご了承ください。また、一部のストーリーは諸事情により脚色されています。

オフィスに着くと、リクルーターが待っていました。事前に業務内容について簡潔には知らされていたものの、実際にどんなことをするのかまでは知らされていなかったので、ドキドキでスーツを着て初日を迎えました。まずはセキュリティ写真を撮影して、パソコンを受け取り、上司の元へ向かいました。上司は優しく丁寧に社内を案内してくださり、関係部署の皆様への挨拶回りも一緒にしてくださいました。挨拶回りの途中ある人に「あぁ、君があの仕事する人ね。よろしく頼むよ。」と言われ、何をするかもわかっていないのに「そうです、よろしくお願いします!」と答えたのを覚えています。

数日後には研修が始まりました。トレーナーがわざわざ僕のために台湾から来てくれて、みっちり2週間のトレーニングをこなしました。それからも数名の同じ部署の先輩たちに仕事を教わりながら、僕は段々と仕事とそのやり方を学んでいきました。最初の2ヶ月間であのトレーニングを受けられたことと、偉大な大先輩達に恵まれたことは本当に幸運だったと思います。

詳細について書けないのは残念ですが、与えらてた仕事内容はとても漠然としたもので、プロセスやツール、パフォーマンス トラッキングのダッシュボード、リーズ ジェネレーションなど、一切無い環境からのスタートでした。今の僕ならまずインフラを整えますが、当時の僕の知識と経験では、それらのインフラを整えることよりまず目先の問題を解決することを優先しました。

入社して10ヶ月程度経過した頃には、当初与えられた業務はこなせるようになり、新たな問題の発見と解決に取り組むようになっていました。最初の頃の何も知らない状態からは想像もできませんが、今では問題と改善方法をスライドにまとめ、月次レポートなど書いて提出できるようになっていました。ひとえに、ビジネススクールで学んだことが活きているんだと思います。

Google ほど自分を成長させられる企業は世界にも一握りだと思います。Google の凄いところは、同僚みんなが優秀だということです。社員の柔軟性に富んだ発想と行動が Google が Google たる所以なのだと思います。高校中退の僕はそんな人達に囲まれながら、今日も自分を成長させるために頑張っています。

まとめ

この記事を書くにあたって僕が読者にオススメしたかったことを箇条書きしておきます。

1. 上記のように、僕はもともと高校中退の落ちこぼれスロッターの松屋バイトでした。でも大学に行っていなくてもなんの問題もない、これからやればいい。生きている限りチャンスは必ず巡ってくる。努力を惜しまず、巡ってきたチャンスは必ず掴んでください。

2. 田村耕太郎先生の「君に、世界との戦い方を教えよう 「グローバルの覇者をめざす教育」の最前線から」を読んでほしい。これを読めばどんな人達が世界を回しているのかがわかる。その世界という大きな舞台に飛び込みたいと思わせる魅力がこの本にはあるのです。

3. 今自分の将来がわからなくなって、くすぶっている学生はみんな本気で大学の授業を受けて高い GPA を持っておきましょう。大学院に行く時に高い GPA は必ず必要になる。GPA が無いと勝負のスタートラインにも立てない。大学の成績を「単位が取れればいい」などと言って、絶対に馬鹿にしてはいけない。ただ、もう卒業してしまっている人は気にしなくても良いです。GPA というのは「職歴がない学生を評価するための指標」であって、社会人としての経験が豊富であれば GPA は考慮しないということもザラです。

4. これから外資系を目指したい人は当然のことながら、そうでない人にも英語を勉強してほしい。GAFA のような外資系で働くために必要な英語力は英検2~準1級程度です。1級レベルの英語力は必要なく、むしろ日常的に所属部署で使われる英語を日々マスターしていければ十分戦えます。英検準1級を取るのに必要な勉強時間はそんなに多くありません。今からでも本気でやれば2年以内には確実に取れます。具体的な勉強法は僕の他の記事を参考にしてください。

5. MBA に行くことは決してマストではありませんが、MBA があなたの世界を広げてくれることは間違いないので、できることなら行くことをオススメします。MBA に行くことで、これまでは立てていなかったスタートラインに立つことができる可能性が十分にあると僕は信じています。

あとがき

これが僕の15歳から27歳までの12年間の物語です。現在は32歳で、幸運なことに結婚して2人の子供にも恵まれました。僕はこれから、英検1級の取得と、高校中退したことで受けられなかった高校の勉強をしたいと思っています(主に数学)。そうやってずっと勉強を続けていくことで僕は自分を成長させていきたいのです。皆さんはどうですか?勉強、やってますか?人はどんなに過去がひどくても挽回できるものだということを僕は証明できたと思います。この記事が皆さんのモチベーション向上に貢献できれば幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました。(2022年5月改訂)

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