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祖父の話

私には二人の祖父がいた。
写真左が父方の祖父。
写真右が母方の祖父。
二人とも孫の私の目から贔屓目に見ても
大変に男前である。

写真中央の私は2歳11ヶ月。
この頃から
誰よりも態度が大きく
誰よりも男前で
誰よりもモンチッチである。
前髪と衣装を見るに
わざとモンチッチに
寄せられている感が否めない。
母親の悪意の痕跡が垣間見えるw

<写真左・父方の祖父・盛勝>

祖父・岩原盛勝については
家族の誰に聞くよりも
インターネットで調べれば
たくさんの情報が出てくる

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沖縄の首里出身の祖父は
敬虔なプロテスタントであった。
年表をみると
大連YMCAの教師をしていたり
戦後、当時アメリカ領となっていた
沖縄にGHQから派遣されている。
この時、祖父が現地で預かった
「ひめゆりの塔」に関する資料があった。
この資料は後に「岩原テクスト」と呼ばれ
祖父が東京に戻った際、
小説「ひめゆりの塔」の作者、
石野径一郎氏に渡され
石野氏の手によって小説化された。
っていう話も
家族の誰も知らなかったのに
インターネットに出てくる不思議。

最後はニュージーランドに移住していた。
今思うと、30年も前に日本から移住し
海外移住のハシリのような感じだった。

祖父は学者肌で
常に聖書の勉強をしていた。
趣味の油絵は趣味の枠をとうに超えていて
日展に出したり
芸術名鑑に名前を載せたりしていた。

私が17歳の時に大往生で亡くなったが
日本とニュージランドという距離から
ほぼ会えていなかった。
亡くなった時は
たまたま祖母と日本に旅行に来ていた時で
亡くなるその日の朝も
祖父は机に向かい聖書に赤ペンを引いていた。
その夜、祖父を看取った病院で
誰かが言った。
「やっぱり日本が良かったのね」

小さい時から
近寄りがたいオーラ満載の偉人だったが
今は一番聞きたい話がある人物である。

<写真右・母方の祖父・敬二>

こちらの祖父は今度は下町の
チャキチャキの江戸っ子で
「呑む・打つ・買う」の日本男子の見本。
広辞苑で「江戸っ子」って引いたら
敬二を出しときゃ間違いはない。
父方の祖父とは
真逆のタイプの職人だった。

地元の建具屋で、本人いわく、
欄間を彫らせたら
「右に出るものはいない!」
とつねに豪語していたが
私が物心ついた時には
祖父は建具屋なんてやっていなかったし
祖母の経営する小料理屋の隅で
自腹で飲んでる姿しか見たことがない。
腕の良い欄間職人だった証言はまだ無い。

それでも子供にとったら
楽しい人だった。
正月には紋付袴姿で
商人の家らしく
樽酒を近所に振る舞い
酔っ払って
下町の芸者ばりに
都々逸を陽気に歌って踊っていた。

今でもこの影響のせいか
正月に母方の実家に行くと
知らない近所のおっさん達が
我が物顔でうちの正月料理を食べている。

この2人の祖父の学者と職人という
真逆の血を引いている私は
上手くブレンドされたように思う。

歳をとるにつれ
自分のルーツに回帰していくような気がする。
大人になったという事ですかね。

今は亡き両家の祖父に挟まれたこの写真が
とてもお気に入りなのです。

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