見出し画像

上野さん、これは間違っています。

  
                           紅野謙介

 『京都新聞』2020年9月27日の「天眼」という一面のコラムに、フェミニストで社会学者の上野千鶴子さんが「論理国語が必要な理由」という論説を掲げました。

 高校国語が「文学国語」と「論理国語」に再編成されるという。反対する人が多いというが、今更のようにわざわざ「論理国語」と言わなければならないのは、これまでの国語教育がいかに文学的で、論理的でなかったかの証しだろう。

 上野さんはこう書き出します。ここに出てくる「文学国語」と「論理国語」というのは、2022年度から施行される新学習指導要領のもと、高校2年生以上になると教科「国語」において履修する選択科目の名称です。短い新聞コラムですから、詳細な説明ができないのは分かりますが、正確にいうと、高校1年生は「現代の国語」(2単位)と「言語文化」(2単位)が必修になります。2年生以上になると、各4単位の選択科目になって「論理国語」「文学国語」「古典探究」「国語表現」の4つの科目から2つを選ぶというルールになったのです。これは今までにない新たな科目編成です。
 さて、この書き出しからすでに疑問があります。「今更のようにわざわざ「論理国語」と言わなければならないのは、これまでの国語教育がいかに文学的で、論理的でなかったかの証し」だと言いますが、もちろん、これは勇み足が過ぎるでしょう。「これまでの国語教育がいかに文学的で、論理的でなかった」と思い込んでいる人がいることは確かですが、ほんとうに「これまでの国語教育がいかに文学的で、論理的でなかった」と断定できるかどうかは別問題です。しかもここでいう「文学的」とはどういうことか、まったく分かりません。
 これまでの国語教育が論理的でないというその根拠は、文科省も示すことができていません。ただ、何となくそうだろうということです。いや、指導要領を作ったのは現場の教員たちだろうという反論がありうるでしょう。たしかにそうです。しかし、思い込んでいる人たちを集めて作成させればそうなるのは当たり前。そうではないと言っている人たちの声が反映されているかどうか。「反対する人が多い」のは、べつに文学業界の人たちばかりではなく、現場の教員の多くからも声はあがっている。そこは無視でいいかということが残ります。

 反対派は、「論理国語」では、法律の条文やマニュアルを読ませるのかと揶揄する。それだって、社会生活を送る上では重要なスキルだ。契約書を読めないばかりに大きな損失をこうむる人もいる。放っておいても身につく力ではない。

 これも上野さんらしからぬ事実誤認があります。「法律の条文やマニュアル」が出て来たのは、センター試験に変わる共通テストのサンプル問題においてです。たしかに「契約書を読めない」のは困ります。それでは「大きな損失をこうむる人もいる」でしょう。しかし、それを大学入試の問題文にするのかということです。法律やマニュアルや契約書を読む力は必要です。誰もそのことを否定していない。しかし、この場所、この機会で、希望する大学に進学できるかどうかを判別する材料として用いるのかというのが私の投げた疑問でした。実際の設問を見ても、判定の精度をあげるにはあまりに粗雑な問題で、入試問題として拙劣です。むしろ、入試がこうした「実用文」の価値を強調するための象徴闘争の道具になっている。そこを批判したのです。
 「実用文」は今の国語教科書にもしっかり素材として入っています。それをもっと増やして、他を追い出せ、中心に置けというので議論になったのです。上野さんのこの記事はどうも事実をしっかり見て、全体を踏まえた議論になっていません。むしろ、経験から来る主観的な判断が先立っているように思います。

 かねてわたしは、文学好きな国語の教師が情緒的な文章を読ませて「主人公はこの時どう感じたか」を尋ねたり、作文教育で「感じたことを思ったまま書きなさい」と指導してきたことを、困ったことだと思ってきた。こういう学生を大学で受け取るから、「考えたことを、論理的に述べなさい」という文章教育から始めなければならなくなるのだ。

 これは何度か、上野さんが書いてきたことです。最近の著書『情報生産者になる』(ちくま新書)のなかでも同様のことを書いていました。よほど、高校時代の国語教師に不満を感じたのでしょう。
 私自身も、高校の国語教師の思い出で言えば、上野さんと似たような感想を覚えたことがありました。私は教材となっていた文章を「情緒的」だとは思いませんでしたが、その文章について解説する教師の語り方に「情緒的」で対話困難なものを感じ、ひとりよがりの世界にはまってるんじゃねえよと舌を出していました。しかし、それはもう40年以上前のことです。いまもまだまったく同じと考えていいかどうか。
 もちろん、「主人公はこの時どう感じたか」を尋ねたり、作文教育で「感じたことを思ったまま書きなさい」と指示するような教育が絶滅したかと言えば、まだゾンビのように一部に生き残っていると思います。しかし、それはかつてのように「情緒的」なものを重視しているからではありません。教師のそうした質問や指示が無内容のないまま反復されて発せられ、生徒の側からは形式的に用意された答えや作文スタイルで応答するところに最大の問題があるのです。教師と生徒の間で交わされるこのやりとりがダメなのは、思考停止のまま、質問と解答が決まったパターンや形式を出ないからです。おそらく、そこでは「文学」の素材かどうかは関係ない。「論理」的な教材であったとしても、まったく同じことがより悲惨なかたちで起きてしまうでしょう。では、この形式化を乗り越えて、どのように思考を活性化できるか。そこを見なければならないはずです。
 ところが、上野さんの批判は、典型として会社員男性の新聞投稿を取り上げて、そこに隠れた論理に向かいます。

 某紙の読者投稿欄に「53歳、会社員」による「論理国語」批判が掲載された。投稿者は「国語力とは人とやりとりする際、お互いを調整する能力だ」とする。言語はコミュニケーション・ツールだから、そこまではよい。その後、「社交辞令の多い日本では、言葉を額面通りに解釈していたのでは、ことがうまく運ばないことも多い。利害や思惑が複雑に絡み合う現実社会では、行間を読み、相手の心情を察し、共感する能力が最も重要」と続く。そのために「文学教育」が必要なのだと。

 この会社員の投稿記事が上野さんを呆れさせたのは分かります。しかし、こうしたごく一部の発言をとらえて、全体にあてはめるのは、果たして正しい論理展開でしょうか。しかも、ここで投稿者がいう「文学教育」とは、私もそのひとりと目されているだろう新指導要領批判派の「文学教育」とはまったく異なるものです。上野さんはこの「文学教育」の意味を以下のように丁寧に解説しています。

 つまり日本は言っていることと伝えたいことにずれがあるホンネとタテマエ社会だと言っていることになる。こういう情報を、ハイコンテクスト性(文脈依存性が高い)という。言わず語らずのうちに共有される集団の暗黙知を知っていないと、メッセージを受け取りまちがえると。この会社員男性が、長い職業生活で学んできたのは、こういう集団の暗黙知なのだろう。それに通暁した結果、彼の情報読解能力は特定の集団に特化したカスタムメイドなものになり、他の集団には適用できないものになっているかもしれない。なぜなら暗黙知は、状況依存的で、変化するからだ。日本の企業はこういう解読能力に長けた「会社員」を育ててきたのかと、感じる。

 ここで言われているように、もし、「文学教育」が文脈依存度の高い情報をさらっと理解する「集団の暗黙知」をマジョリティに刷り込むことに成功していたとすれば、日本社会に役立つとしてもっと重用されたはずです。しかし、この53歳の「会社員」の人が独特な「情報読解能力」を鍛えていたとして、それは中学や高校でのとってつけたような「文学教育」のおかげではない。上野さん自身が指摘するように「長い職業生活」での学びによるものでしょう。そしてその学習効果はいまだに力を発揮しています。現在の日本社会は依然として文脈依存度の高いまま、「察し」と「忖度」のコミュニケーションを求めています。それは最近のよく使われる「同調圧力」とも接続しているのではないでしょうか。
 この「会社員」は学校のみならず、そうした企業組織や職業体験のなかで身につけた日本的なコミュニケーション能力を「文学教育」のおかげだと誤認しました。しかし、それは誤認にすぎません。上野さんもそこを分かっていながら、あたかもほんとうに「文学教育」が日本的コミュニケーション能力の育成に関わりがあるかのような書き方をしています。
 では、「文学教育」がいま指導要領の再編成によって排除や解体の対象となっているのはなぜか。指導要領推進派の人たちがこれから先の社会は「組織内ダイバーシティ(多様な人材活用)」が進み、「コンテクストを共有しない書き手と読み手が増え」ると考えているからなのでしょうか。ことによると一部の人はほんとうにそう思っているのかもしれません。しかし、出された提案はそうなっていない。だから批判しなければならないのです。悪しき日本的コミュニケーションの成り立たない社会を目指すべく、「国語」という教科の名称も変えていこう。そうであるならば、大いに私も賛成します。ところが、新指導要領の「国語」は「現代の国語」や「論理国語」などの科目名称であたかも論理を重視するようなふりをしながら、文脈依存度の高いコミュニケーションを温存させ、むしろ、ダイバーシティをなし崩しにしようとしている。目的とは異なる結果が予想されるから、批判の対象となっているのです。

 文章を読むときに必要なのは、まず「額面通り」に理解する能力である。書き手としては、読み手に誤読を許さない一義的で論理的な文章を書くことが求められる。多義的な解釈や誤読を誘発するとしたら、それは書き手側の責任である。これから先、組織内ダイバーシティ(多様な人材活用)が進んで、ますますコンテクストを共有しない書き手と読み手が増えていけば、ハイコンテクストに依存する解釈は成り立たなくなる。暗黙知であったものを明示化し、誤解のないジョブ・ディスクリプション(職務記述書)を指示することが、職場でも必須になっていくだろう。「察し」と「忖度」で成り立つ、日本的「会社員」のコミュニケーション術は成り立たなくなるのだ。

 すでに「読み手に誤読を許さない一義的で論理的な文章を書く」ことは、小論文の中心課題になっています。作文教育の大半はそれを目標にしています。しかし、「誤読を許さない一義的で論理的な文章」がいかに難しいかは、上野さんご自身がよく承知しているはずです。いま専門用語やカタカナ語を駆使して大言壮語する文章が政府系の公文書のなかにいかに多く溢れているか。それらは誤読を許さない論理性をきちんと持っているかどうか。
 新指導要領を推進している中心人物がある会合で、これからの社会は「Society5.0」なんだ、言葉の意味は私もよく分からないが、とにかく「Society5.0」だと言っているのを聞いて、椅子から転げ落ちそうになりました。ことほどさように官僚や政府の公文書は、広告業界の営業プレゼンテーションと類似した言説が増え、「誤読を許さない一義的で論理的な文章」が消えてきている。むしろ、増えているのは、曖昧な比喩やイメージに寄りかかった言葉であり、文脈依存度が高くて、しかも、その文脈を探りあてるのに苦労する文章です。何となく分かるでしょ、分からないのと脅してくる文章群です。とすると、この記事の結びにある次のような皮肉はあまり効果的でないように思います。

 そしてこういう「共感力」を強調する会社員男性が、おそらく妻には少しも「共感力」を発揮しないだろうことも想像に難くない。こういう男性は、妻には自分に対する「察し」と「忖度」を求めるのだ。夫婦関係は最初の異文化間コミュニケーション、「額面通り」口に出して言わないことは決して相手に伝わらないことを、肝に銘じるべきだろう。

 『国語教育 混迷する改革』(ちくま新書)にも書きましたが、新指導要領の推奨プランとして示された「国語教育」の指導案を見るかぎり、必修科目の「現代の国語」では話すこと、書くことに比重が置かれ、論理的な文章をしっかりと「額面通り」読むことを重視していません。力点の置かれた話すこと、書くことも形式的で、型どおりの言葉のやりとりを交わすことで終わるようになっています。同じく必修科目の「言語文化」では、伝統的な自然観や文化の伝承が前面に出て、消滅しつつある四季の移ろいや季節感や情緒のあふれる語彙を覚え、使えるようになることが目指されています。それこそ日本的な文脈への高い適応能力が求められています。
 選択の「論理国語」は「現代の国語」の延長線に現れる科目ですが、おそらくここでようやく評論文の読解が中心となります。しかし、コンピテンシー主義を強調し、この教材で何の能力を身につけるかを強調しすぎることによって、ひとつの教材に含まれる複数の要素を的確に腑分けしながら読み解くよりも、分かりやすい単数の論理のみを抽出して、分かった気になることを進めていくことになるでしょう。つまり、「論理」を強調しながらも、論理的な思考力を高める指導計画になっていないのです。
 さらに「論理」と切断されることによって、「文学国語」はより「情緒的」な文章とその多義的な解釈の教育に押いやられています。しかし、「論理」のない「文学」に可能性があるとは思えない。文学にはたしかに多義的な解釈を許容する部分がありますし、誤読を拒まないテクストもあります。ただし、教科書に載っている教材の多くは、解釈の多様性を認める部分と、そうではなく一義的に、どう逆立ちしてもそのようにしか読めないように計算されている部分とを組み合わせて出来上がっています。コンテクストを共有できない社会の到来を見すえるのであれば、適切に解釈し説明のできる領域と、解釈を決定できない不可視の領域とを切りわけながら考えるように指導する方がはるかに役立つでしょう。
 もちろん、いま各社が教科書を編集しているところですから、具体的な結果が出ないと、まだ正確なところは分かりません。おそらく、もはや動かしがたい「論理」と「文学」という不毛な対立をかいくぐって、さまざまな工夫をするものもあれば、文脈依存、指示に従順な内容のものも出てくるでしょう。しかも、教科書編集の先には、文科省の教科書検定が待ち構えています。この検定の基準がどうなるか。それによって教科書はすっかり様変わりするでしょう。だからこそ、いまの議論は重要なのです。
 上野さんのようなすぐれた戦闘的啓蒙家に、今回のような荒っぽい議論をされるのは困ります。まさにご自身が批判している敵を利することになるからです。上野さんは「新中学生へのメッセージ」(朝日小学生新聞特別増刊号 WILLナビ next首都圏』2020年2月14日)でも、「論理的な文章を読み、理解し、人を説得できる文章を書く能力」が大事だと語っていました。それらの能力が重要なことは言を俟ちません。しかし、その育成をより困難にするフェイクの改革にはもっと厳しい目を注ぐべきではないでしょうか。(2020年10月1日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?