『河原荒草』をもう一度読む(3)

まだどうしても気になるところがあるので引用を続ける。

以前なかったところにまでひからびた死骸が積んである
あんなになってしまうのに
子連れでひからびる可能性だってあるのに
それでもこの国にこなくちゃいけない理由がある
住んでいた土地を離れて使い慣れた言語を捨てて
こなくちゃいけないおとなたち
ああして手をひかれあるいは抱かれて
連れてこられてしまう子どもたち
そうしてやっとその窓口にたどりつくと
おまえたちの来るところではない、と
帰れ、と
口をつぐめ、と
ただそこにならべ、と
それでもこの国に来る
使い慣れた言語を捨てる
そしてそれは私たちでした
(130ページ)

『河原荒草』伊藤比呂美著   
思潮社 (2005年刊)

「使い慣れた言語を捨てる」という一行の恐ろしさ。それは外国語を習得するということとは全く意味が違う。もし自分が日本語を捨てなければならないとしたら。それは自分を捨てることと同じではないか。

働くために日本に来る人たちはどんな風に感じているのだろう。どんな思いで来日しているのだろう。

日本で働くことを目指してやって来る留学生たちと接する機会があるのだけれど、日本語で「どうして日本に来たの?」と尋ねると、彼らの大方は「日本の漫画やアニメが好きだったから」「それで日本の文化に興味を持ったから」と答える。(本当にそうなのか、よくわからない。日本語ではまだ複雑な表現ができないから、当たり障りのない言い回しで返答しているだけかもしれない。)もしそれが本当だったとして、そんなことで日本に来てよかったのだろうかと考え込んでしまう。自国の人間さえ大切にしないこの国にーー。

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