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『茶の本』に見る日本人の誇りと気概~その1.文明国とは

岡倉覚三(天心)の『茶の本』を読んだことがない人は、その内容を、何やら優雅なものであるように想像するのでありましょう。
そして、「茶道は敷居が高そう」という想いと相まって、「理解できそうにない」と敬遠しているかも知れません。
それに、古典はどうしても読みにくい・・・。
読まない理由としてはそんなところかなぁと思うわけですが、
いずれにしても、読まずにいるのは実にもったいないと言うべき一冊です。

『茶の本』は、茶の湯を通して、日本の心、日本の精神、日本人の誇りを余すことなく説いた内容となっています。
日本人が西洋に追いつけ追い越せと必死になっていた時代に、日本人に対して上から目線な文明国に対してもいたずらに西洋を崇め奉る日本国に対してもばかやろうふざけんな、とさけんでいるようで、実に痛快きわまりないのです。

その気骨ありすぎな部分を抜粋してご紹介します。
今回は第一章からの引用です。

一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本人が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。

痛烈な皮肉ですね。
明治の頃、まだ西洋人は日本の茶の湯を「なんだこれは?」という見方をしていたのです。
今とは隔世の感があります。
実に、その間の、宗匠をはじめとする茶人の努力が忍ばれます。
満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから・・・というのは、日清戦争のことをさしています。

もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

ここには岡倉覚三の悲哀が込められています。心の中は悲憤の涙でいっぱいだったのでしょう。
そんな岡倉覚三の哀しみをよそに、残念ながら日本は、ますます「文明国」の道を突き進んでいきました。
そして、血なまぐさい名誉を求めた結果、ついに日本は、日本史上初めて国際戦争における負けを引き受けることになったのです。
岡倉覚三は、まるでそれを予感していたかのようです。

『茶の本』(岡倉覚三著 村岡博訳 岩波文庫)
※訳者は村岡博をおすすめします。翻訳により文章の格調がずいぶん異なってしまいます。


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