近衛寮放送室Vol.1《みやけさん》のお手紙

こんばんは!京大の卒業生なのですが、映画版ワンダーウォール、楽しく拝見しました。寮に住んでいた友達もたくさんいたので、なつかしく、切なく、ある意味では残酷なところもあって、胸打たれる映画でした。

私は去年から会社に就職し、上京しました。そこで、この社会はどんどん貧しく、お金のない状態になってるんだな、と感じるようになりました。
ワンダーウォールのひとつのテーマである「経済的合理性のないと言われる場所を、それでもどうやって残すか?」という問いを考えると、日本全体が経済的に貧しくなれば、経済的合理性のない場所を残す余剰、あるいは余力がないのが当然……という世の中になってしまっているのかな、と思います。端的に言えば、社会から余裕がなくなっているということです。
(たとえば教育にかける予算が減っているのも、そもそも予算全体が減っているからではないか、と)。
だとすれば、余裕を生み出せるくらい社会が(経済的に)成長すべき……というのがひとつの答えになってしまうようで、それはそれで、さらに私たちが余裕を失ってしまうように感じます。

社会が富める間はよいのですが、社会が貧しくなったとき、それでも私たちが合理的でないものにうつくしさを感じられるようになるためには、なにが必要だと思いますか?

みなさんのご意見を聞いてみたいです

⇨✉️脚本・渡辺あやからのお返事


みやけさま

お手紙ありがとうございます!

じつはみやけさんからのお手紙が、この「文通」企画にいただいた記念すべき第1通目でした。

この企画は三船役の中崎敏くんから提案があり、広報室の一同で「それはおもしろそう だ!ぜひやろうやろう!」と一気に進めたものなのですが、「はたして本当に思うような 内容にできるかしら」と、みんな心のどこかでちょっと不安に思っていました。なのでみやけさんからすぐに、かつこのように大切な問いかけをしていただいたことに、一同とて も手応えを感じて喜んだのです。まずはそのことにお礼申し上げます!

さて、そしてそのみやけさんからの問いかけ「社会が貧しくなったとき、それでも私たち が合理的でないものにうつくしさを感じられるようになるためには、何が必要だと思いますか?」については、先日のYouTubeライブ「近衛寮放送室」でも出演者の3人が熱く語り合ってくれていました。(ご覧いただけたでしょうか?)放送室の彼らが口々に言っていたように、私にとってもこれは「とてもむずかしく」て、そして「最近ずっと考えてい る」ことです。

放送室でのトークで私がはっとしたのは、ゲストの出町座の田中さんの「夕陽みたいに絶対的に美しいはずのものでさえ、そう感じられない時がある」という言葉でした。それに 須藤蓮くんが「僕はずっと自然が好きだったのに、最近までそれを忘れてたことに気づいた」と言っていましたが、まさに私も自分の人生でもっとも調子が悪かった時期を「桜が 咲いていることに気づかなかった春」として記憶しているんです。

それは今振り返っても、自分史上最も「何かが狂っていた」時期でした。その(おぞましい)経験から私は「人がなにかをうつくしいと思う感覚を失っている時はとても危険な時 である」、だけど「わりと人はそれを失いやすく感覚は狂いやすい」ということを肝に銘じて暮らすようにしています。

もしかしたらこれは「人」を「社会」とも言い換えられるのかもしれません。 人がそうであるように社会も「うつくしいものや大切なもの」をとても見失いやすく、そしてその時は「結構危険な状態である」と言える気がします。なので、社会が健全であるためにも、やっぱりそのことを「重々肝に銘じて」物事を決めてゆく、デザインしてゆく、ということがとても重要なのではないかと個人的には思うのです。

人がうつくしいと感じるもの、大切に思えるものを一つでも多く存在させることが、ひい ては社会の健全性のために必要なことである、ということがもっと世の中に思い出されてゆけば、経済を理由にやすやすとそれを奪われる、ということは少なくなっていくんじゃないかなあ、そうなってほしいなあと思っています。

渡辺あや

⇨✉️《みやけさん》からのお返事

渡辺あやさま および 近衛寮広報室のみなさま

先日、私書箱へお手紙寄せた者です。
お返事ありがとうございました。とても嬉しかったです。
まさかyoutubeライブでも取りあつかってもらえるなんて思っていなかったので、驚きつつ、やっぱり嬉しかったです。
ライブ出演者の皆さま、渡辺さん、本当にありがとうございます。

渡辺さんがお手紙に書いてくれていた「桜を愛でることさえ忘れてしまう自分たちを考慮しつつ、そのうえで社会をデザインすること」……というのは、なにかほんとうに大切な話なんだと思います。
目の前の人が、桜みたいに、うつりかわるものだということすら、私は時々忘れてしまいます。
毎日やるべきことや頑張りたいことに追われていると、いつのまにか自分が世界の中心になり、その世界の外には桜や夕日があるということを忘れてしまいそうになるのです。

関係ない話なのですが、最近、在宅勤務になって、久しぶりに自炊を再開しました。(お恥ずかしい話なのですが、社会人になってから、自炊をする余裕がなかったのです)。
すると気づくのが、野菜や果物って、今食べないとほんとうにすぐ腐ってしまう、ということなんですよね。
苺の底のほうはすぐふやけてピンクになるし、ナスは底が茶色くなるし。
なんだか私は、今まで腐らない食べ物に慣れすぎていたなあ、と思ったのです。

たぶん、夕陽にしろ、桜にしろ、ナスにしろ笑、自然は本来「いま見なければ、食べなければ、失われてゆくもの」なんですよね。

そのことを忘れて、私たちはすぐ、一度失ってもまた買える、と思ったり、とりかえしのつかなさ、みたいなものに触れなくなっているような気がします。
渡辺さんが書いてくださったような、うつくしいものを忘れがちになってしまう自分は、どこかで「それは一度なくしたらとりかえしがつかないのだ」ということを思い出す必要があるのかもしれないです。

そんなことをぼんやりと考える日々です。思考のきっかけを作ってくださって、本当にありがとうございます!
これからも、応援してます。