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「できること」と「したいこと」

したいことをしているはずなのに、なんかモヤモヤする。

いまいちのめり込めない、体重が乗らない、熱中できない。

そんな感覚がある方へ。

自分が迷ったときに立ち返る意味も込めて、書いてみたい。

「できること」と「したいこと」。

これは近いようで全く違う。

し、いつの間にかできることを「これが自分のしたかったことだ」と思い込んでしまう。

思い込んでしまうというより、刷り込まれてしまう。

もっと強い言葉を使っていいなら、洗脳されてしまうと言ってもいい。

できることの、したいことへの侵食である。

心からしたいことをしているはずなのにしっくり来ない、という症状はここから来ると僕は思っている。

例えば、小さい頃に先生から褒められた。

学生のときに賞を取った。

社会人になってから、その分野で昇進した。

そういう得意なことほど、本当にしたいことに侵食してきて、覆い尽くしてしまう。

本当のしたいことは埋もれてしまい、何だったのか見えなくなり、探し出せなくなってしまう。

僕の経験でいうと、高校まで続けた野球。

小学生の頃、英会話教室に通い、大学院まで行ってしまった英語。

そして、フリーランスになってからメインの業務であったマーケティング。

世間から見ればそう大したことのないレベルなのに、後生大事に抱えていた。

なぜか。

周りから褒められたり、資格を取得していたり、それでお金を頂いていたりしたからだ。

自分の中でこれらは「できること」になっていた。

そして、いつしかそれは「したいこと」にも侵食してきて、好きなことであると無意識に刷り込まれていた。

高校時代、好きなことは何か?と聞かれたら、野球と答えていたし、大学時代なら英語と答えていた。

社会人になってマーケティングを生業としていた僕は、好きなことで生きていると思い込んでいた。

すべて僕の思い込みだった。

身体は正直だ。

高校3年まで続けた野球は、大学で野球サークルを見学しに行ったが、結局、入らなかった。

高校の英語教員一年目に、意識を失って救急車で運ばれた。

マーケティングの仕事を続けた5年目、パソコンに向かうのが苦痛でしかなくなった。

今、僕はマーケティングの仕事を全くやっていない。

いくら収入がよくても、絶対に仕事を受けたくないと思っている。

僕の中で、できることとしたいことを判別する基準は明確にある。

ここまで書いてきた経験を通して、明確になってきたと言ったほうが正確だ。

それは、それをすること自体が報酬になっているか?ということ。

例えば、それをしてお金がもらえるから好き。

例えば、それをして誰かに褒められるから好き。

例えば、それをして表彰をされたり、記録が出るから好き。

例えば、それをしている自分が好き。

そういったものは、本当にしたいことではないと思っている。

僕は今、田舎町でカフェをやっているが、たとえお金がもらえなくてもこの活動は絶対に続けると自信を持って言える。

また、今この瞬間に10億円が手に入り、一生遊んで暮らせるとしても、僕はカフェ店主であり続けたいと思っている。

そういうものが、本当にしたいことだと僕は思っている。

でも、これは本当に難しいことだというのは、僕自信、肌身に染みてわかる。

人間は誰かに認められたいし、承認されたいし、自分が社会の役に立っていると感じたい。

それを満たすのが「できること」なのだ。

人よりできると認められるし、承認されるし、褒められるし、社会の役に立てる。

だから、できることがしたいことにすり替わる。

できること=したいことと信じていたほうが、自分の都合がよいからだ。

したいことで人から認められて、社会の役に立てることは理想だし、素晴らしいことだ。

実際そういう人はいる。

でも、ほとんどの場合、そう上手くはことは運ばない。

したいことはしたいこと。

できることはできること。

そのように分離している場合が多いのではないかと思っている。

そして、その場合、したいことをできることに変えていくのは本当にしんどい。

僕は個人事業主になりたての頃、イベント出店してコーヒーを淹れていた。

今でも忘れない。

お客さんが僕の目の前で、「こんな不味いコーヒー飲めるか」と言って、ドブに捨てたのだ。

僕は返金しますよ、と言ったが、それさえも拒否された。

悔し過ぎた。

涙こそ出なかったが、心ここにあらずでその後の営業については何も覚えていない。

自分には向いていないのでは?と思った。

たぶん、こういうタイミングで、人はしたいことをできることにするのを諦めてしまう。

そこで踏み止まった僕は運が良かった。

その数ヶ月前に、意識を失って倒れ、救急車で病院に運ばれるという経験をしていた。

人は、いつかは死ぬ。

そして、そのときは突然来るかもしれない。

そんなことなら、周りからどう思われようと、誰がどう言おうと自分の好きなことをしたほうがいい。

したいことを今のうちにやっておいたほうがいいじゃないか。

そのような心理状態にあったので、半分ヤケになってコーヒーを淹れ続けられた。

コーヒーを淹れること自体が好きだったから。

別に人に不味いと言われたって、それはしたいこととは関係がない。

淹れる、という行為には他人の評価は関係ないのだ。

本当に僕は運が良かったとしか言いようがない。

あのとき、頭の打ち所が悪ければ、本当に死んでいた可能性だって無くはない。

そもそも意識を失って倒れていなければ、今も英語教師を続けていたかもしれない。

ただ、当然だが意識を失って倒れたくはなかった。

痛いからだ。

そして、これを読んでくださった方にも、一回意識を失って倒れたら良いよ、とは言えない。

痛いからだ。

痛いのは嫌いだ。

痛いのが好きな人はいない。

だから、このようにして僕の経験を書き記して、少しでも肥やしにして頂けたら嬉しい。

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